彼女の毒

 マキさんは帰ってこなかった。
 彼に起きた異変も、彼が何を考えていたかも最後まで分からなかったし、私は分からないなりに誠意をもって受け答えた。嘘は無いから悔いもない。彼がどう受け取り、何を思うかまでは私の操作できる事ではないのだから、考えたって詮無いことだ。
 悩むとすれば、家主がいない住処を我が物顔で使うのは心苦しいなという程度。
「兄さん。私は楽団には伺えません」
 楽団へ出向き、兄に伝えた。とても傷付いた顔をしていた。
「二度と会えなくなります」とも伝えようとしたが聞こえないだろう。勝手は承知だ。このまま無言で行方を眩ましてしまおうと決めた。
 劇場から出て行きしなに噂話を耳にするまでは、そのつもりだった。
『我が一族を陥れた、悪魔の歌姫に復讐する』
 楽団座長、アオ殿が不在だった。話を通せる人間が居なかったので、やむなく侵入して当該書面を探し当てた。――楽団に届いたという文書は、兄の殺害予告と見て取れた。
 アオ殿が不在なのも、犯行声明文への対処に奔走しているためかもしれない。
 協力を求められる先が無い。何なら先日喧嘩を売られた歌うたいで十分だというのに見当たらなかった。近場で母の支援者を訪ねても同じだ。不在または連絡が取れない。
 北には行けない。私は追放された身であるし、来ない方がいいとの忠告もある。

 外部の支援を求めつつも、独自に兄の警護体制を敷いていくことに決めた。念のため手紙も書いた。マキさんが帰宅した時に事情が解らないのは困るだろう。
 恐らく犯行は劇場で行われる。兄の身辺警護と迷ったが、とりあえず夜間は劇場に潜んで破壊工作が施されていないか見張ることに決めた。昼間は公演を警戒する。切符を購入して聴衆と同じ経路で入場し、花束で顔を隠しながら不審人物に目を光らせる。
 犯行声明文が届いた日付はかなり前だ。今まで実行に移されていなかった幸運を拝みながら夜を明かした。劇場に銃火器が隠された形跡はなく、夜間の侵入者もいない。破壊工作によって命を狙うより、自分の手で罰を下したい欲求のある犯人なのかと考えた。
――観客の中に潜みながら、その予感が正しかったことを悟る。
「旦那様を殺した悪魔に、神の名のもと鉄槌を!」
 突然がなりたて立ち上がった観客が、舞台に銃口を向けた。

 演奏は止まり、劇場は騒然とした。
 聴衆の流れが出口へ殺到するなか目測で判断する――距離が遠すぎる。
 犯人の制圧よりも兄が撃たれる方が早い。
 間に合えと駆け出した。射線から兄を遠ざけ突き飛ばすと同時、発砲音が響いた。

 手持ちの花束が潰れ、やわらかな花弁が吹雪のように宙へ舞う。
 防具を貫いた弾丸がこの身に届いた。

「……相良、?」
 兄さんは無事だ。守れた。ここまでは上出来だ。
 速やかに兄を物陰に隠し、犯人を排除せねば。起こそうとした身体がぺしゃりと潰れた。

――胸に穴が空いただけだ。
 手足をもがれたわけでも、首をすっ飛ばされてもいないのに、どうしてこの身は動かない。胸に楔をうたれたみたいに痛くて、熱い。
 指先から力が抜ける。小さな銃創から急速に熱が流れ出ていく。
 銃弾の一発程度は誤差だろう。支障が出たことは無かった。防具込みで受けた銃弾なら尚更だ。私が負傷に気付く前に傷が塞がることすらある。化け物じみた治癒力がこの盾の有用性で、私の強みだ。
 もとより得体の知れない身だ。異常であっても、じき消える特質だとしても、在るまでは便利に活用していくつもりでいたのに。

 何故、よりにもよって今なんだ。
 この瞬間、動けない手足に一体何の意味がある。

「さがら、なんで。血が」
 隠れてくれと言った。逃げろと言った。混乱のせいか動けない兄に初めて苛立った。
 泣きわめく暇があるならさっさと立て――胸ぐら掴んで引き寄せ告げた。
「落ち着いて」
 まだ犯人は照準を合わせている。
 兄に覆いかぶさり次弾を避ける。警備くらい居るだろう役立たずと内心で唾吐いた瞬間、犯人のいた方角から争う物音がした。取り押さえられたことを理解し、安堵する。

 霞む視界に見上げた兄は、大粒の涙を零しながら、私の言葉に耳を傾けてくれていた。
 先程までの動揺からすれば奇妙なほど――魔法でも使ったかのように。
 自分の言葉を反芻して、腑に落ちる。

 つまりはそういう事だった。あの歌は――魔法は。私に足りなかったものは。
 この言葉を、心を伝えたいという強い渇望。傲慢だ。
「……兄さん。よく聞いて」
 今際いまわきわに気付いてどうする。本当に救えない。
 諦めさせてもくれないから、死に汚くも足掻いてしまう。
 そういう意図の余力だろう。神だか何だか知らないが趣味が悪い。だったら頼む。お願いだ。もう少しだけ、私の不始末を挽回する猶予を。兄に掛かった呪縛を解くはなむけを。
 不出来な身内の自業自得に泣きじゃくるひとを――その、幼気いたいけで純粋な心を、ただの死体ものが囚えていてはいけない。
 お望み通り、最期の足掻きだ。

 いいんだ、兄さん。
 こんな私を半身と呼ぶ、何も知らないきれいなひと。

「私を忘れて、しあわせに」