彼女が伝えたいこと①

 兄に決別を告げるため、中央のマキさん宅に帰った。
 慣れのある居住空間にようやっと息がつけた。此処も私の住まいに比べればかなり上等だが洋館よりは親しみやすい。道理で彼が私の住居を犬小屋みたいな目で見るわけだ。
 私の安堵は見透かされており、マキさんが笑いながら尋ねてきた。
「貴族相手の仕事もあるんだろう。あの程度の屋敷くらい招かれるんじゃないのか」
曲者くせものとして入るのと、そのお宅の子になるのは全く別でしょう」
 潜入して諜報活動に勤しむ侵入者目線からのお屋敷と、「此処で生活してください」と明け渡されるお屋敷の一室では話が違う。具体的に言えば怖い。疎い目からも一級品と解る調度品に囲まれて気が休まるものか。
 あれだけの洋館なら納屋もあるだろうと転居目的に探していたら事情を聞かれるし、正直に話したら生暖かく見守られてふかふかの寝台に連れ戻された。言っちゃ悪いが身に染み付いた生活水準の差は埋めがたいのだ。
「用事を終えたら戻ろうと思ってるんだが」
「勘弁してください」
 此処で十分じゃないか。市場も近いし交通の便も良い。雪も少なくて暖かいほうだ。
 淡々と抗議を並べていたものの、どうも彼は話を聞いていない気がした。無言で凝視するうち顔を覆って動かなくなり、やっと一言「悪い」と呻いた。
「最近ずっと、お前のことが野良の黒猫に見える……」
「目医者を紹介します」黒髪金眼なだけで幻視するなら頭の医者か。
 手紙が届いていた。ヒサメ殿と、花街の拝金主義から。前者は解るが後者は珍しい。
 ヒサメ殿からは、面倒な事になるから北に近寄らない方がいいという忠告。
 花街からは、翡翠殿のこと。――良い身請け話が纏まりそうだから、文通や面会を控えてくれとの要請。
 彼女なら、意に沿わない身請けなど突っぱねる。娼館としても看板である彼女を簡単に手放す事はすまい。拝金主義が念押しするくらいだ、下手な噂で破談になっては困るほどの良縁なのだろう。近ごろ手紙が途絶えていたのはそういう事かと納得した。
 翡翠殿から頂いた匂い袋は、今も御守りとして持ち歩いている。
 文面から察する限り祝うことも出来そうにないのが、すこし、悲しい。

 中央に戻るまでの道中も、不思議と知人に会わなかった。
 馴染みの業者も不在で、伝手という伝手が機能しなかった。偶然と言えばそれまでだが、数が重なれば違和感も覚える。視線にも煩わされず快適ではあったが釈然としない。
 それに重なって、友人と連絡が取れなくなる時機の悪さ。
 社会に居場所が無くなっていくような奇妙さがあった。再就職先を見つければ変わるだろうと楽観しかけ、年単位の労働禁止、静養優先との指示を思い出す。
 私の半端を放置して、仕事で他者への損害を出してはいけない。それは確かだ。
 生きていれば浮世から離れる時期もあるかと、深く考えるのをやめた。