壊れた入口や壁板の隙間から、月の光が差し込んでくる。
朽ちかけた社に響く寝息は浅く、彼女の目覚めを予感する。抱き締めていた身体にだいぶ熱が戻って安堵したが、遅れて過ちに気付いた。
彼女は身体接触が苦手だ。それも本人が寝ている間に――此処に俺がいる言い訳も、
土地神の指摘通り、俺が吸血鬼だと明かすのはまだ早い。焦るうちに彼女が唸り、瞼を震わせる。眼が開くまでの数秒であわてて思考をはたらかせた。
先ずは無断で触れた謝罪と、それからここで夜を明かす提案。彼女のことだから野営の備えもあるだろう――
「……マキさんの神出鬼没にも驚かなくなってきました」
「……もう、そういうモノだと思っていてくれ」
彼女は俺を見て眉をひそめる。その身を包む毛布も、怪訝に眺めた。
謝罪して離れようと思った矢先、毛布の中に埋まるように俺へ密着し、動かなくなった。
「……いま、あまり元気じゃないので……会いたくなかった」
毛布の中からくぐもった声が聞こえる。
顔を隠したかったのだろうと推測しながら、本音が漏れた。
「……元気じゃないのは知ってるが」
「……、」
「兄と会いはじめてから生気が薄い」
「……きらいだ…………」声色の自棄っぽさが珍しかった。
それとも、取り繕う気力も尽きたのか。
毛布の上から恐る恐る、拒絶が無いのを確かめてから緩く抱き締める。時おり揺らして背をさすり、消耗をいたわる。冬道を歩き通した疲労も蓄積されているはずだ。
彼女の声がとても小さい。
「……ごめんなさい。また、貴方の優しさにつけ込んでいる」
「、……つけ込むとかいう言葉が誤用だと解らせたいんだが、とりあえず徹底的に甘やかす許可から貰えるか?」甘やかして駄目にできたらどれほど良いか。
追い詰められる前に頼って欲しい。そうして欲しくて傍に居るのに伝わらない。俺に寄り掛かることに罪悪感を抱く。解ってはいた彼女の気質が、今は無性に胸に刺さる。
どうすればいいのか考えながら、彼女を抱きしめ続けた。呼吸音だけが聞こえていた。
「……中途半端だと、指摘されました。その通りだと思った」
ぽつりと呟かれた。続きを促して、しばらく待った。
「……兄には良い顔をするけれど、楽団に行く気は無い。水が合うからと便利屋を選んだのに、譲れないものを引き合いに出されて迷わず敵対した。……けれど自分の中身なんて、矜恃くらいしかはっきりしない。すべて未熟でちぐはぐで……出来る所からでもけじめを付けていこうと、母と話してきました。……もっと早くに来るべきだった」
母には愛してもらったと、申し訳なさそうにしていた彼女を覚えている。墓前へ懺悔しに行ったのではと思った。少なくとも、明るい話をした人間の沈み方ではないから。
きっと母親は望まない。自分との思い出を後ろめたく回顧されることも、愛した子どもからの謝罪も。
「……やらなきゃならない事は残ってるか?」
「……兄に、楽団には行けないと伝えることです」
「なら、それを終わらせて、疲れることは一旦やめだ」
毛布の中の彼女が身じろいだ。
「未熟なものを育てよう。時間が掛かることだ。何年でもいい、穏やかに暮らそう」
「……育成の理屈がよく解りませんが」
「お前の師も、お前を『琥珀』という個として尊重し続けただろう。だから琥珀に自尊心が芽生えた。無自覚かも知れないが情動も育っている。仕事を抜きに、続けるだけだ」
「…………マキさんを、私の事情に巻き込むわけには」
「俺からも、説明させて欲しい事があるんだ。だからしばらく付き合ってくれないか」
人間社会から縁を切らせる。だから言葉は間違っていない。
彼女が自己に整理をつけられたら。幸せな記憶への負い目が軽くなるまで落ち着いたら、俺がしでかした事を明かせるだろうか。
「未熟で当然だ。今まで止められてきただろう。お前がされてきたのは、そういう事だ」
奪われた。壊された。諦めさせられ、捨てざるを得なかった。
選択の自由すら与えられなかった人間に、何が出来た。
彼女が緩慢に、俺の服を掴んだ。徐々に力が強くなる。
身体は震えていた。握りこぶしが白くなるほど力が篭っている。
声は無い。手に篭もるのが怒りか悲しみかも解らない。
吐き出せないものの代替行為か、俺の身体を弱く叩く。
――泣きかたの解らないこどもだ。
感情の発露。でも発散させ方が分からず戸惑っている。身勝手な暴力という形でしか顕せず叩き続けている。彼女が嫌がりそうだと思った。人に寄り掛かることも、自分の情動に巻き込むことも。
「気にするな、それでいいから」「大丈夫だ」聞こえていないかも知れないが、言い聞かせ続けた。少しでも理性が優勢になればこんな碌に発達していない情動なんて直ぐ抑圧される。今までずっとそうだったのだから。
全力で急所を狙われるならまだしも、叩くだけだ。じゃれついているのと変わらない。大きな子どもの癇癪としては上等すぎる。
喉の奥から引き絞るような声が聞こえた。
動物の鳴き声に近い音だった。殺した声が、呼吸の合間に漏れきこえる。暴れながらそうやって、涙も流さず泣いている。
音の齎した感情が押し寄せて、――俺をとぷりと海に沈める。
呼吸が苦しい。飲み込めないほど膨れた悲哀が喉を塞ぐ。
誰も頼れない。独りでも、虚ろなままでも立つしかない。それが自分の役目だと言い聞かせ、音の消えた水底で凍えながら耐えてきた。
暴かれる混乱と恐怖、強い憤り、生理的な嫌悪。頼りのない身の上が怒りを抑えつけ、嫌だと訴える口を塞いだ。何も期待せず、受容し諦めることを強いた。
勝手に涙が溢れていた。とめどなく、こぼれ続ける。
俺の身体が選んだ、精神負荷への防御反応だった。そうしないと息が詰まる。伝播する感情をかろうじて散らしながら「じょうずだ」と言い聞かせ続けた。
怪訝に顔を出した彼女の頬に、俺の涙が零れて落ちた。
彼女はひどく憔悴していた。俺の異変に驚きながらも、声すら出ないようだった。この弱りようなら、顔を見せたがらないわけだ。
「これは俺の感情じゃあない。すべてお前の、お前から流れ込んできたかなしみだ」
濡れた頬を指で拭う。相良の涙を拭うみたいに。
彼女の顔がくしゃりと歪んだ。――初めて泣けたのだと理解し、安堵した。
「涙が出なくて辛ければ、俺を使って泣いてほしい」
少しずつしか取り出せなくても、いつまでだって付き合うから。
彼女は俺を叩きながらクゥクゥ泣いた。泣き疲れ、ぐったりして眠った。
