北の街からさらに山間へ――深い森の傍にある小さな集落。
母が、自身を加害した貴族から身を隠し、私たち双子が生まれ、幼少期を過ごした村。
交通手段が欠けてからは、徒歩で旅をしていた。
考える時間が欲しかった。だから時間を掛けたのかもしれない。思索はまとまらなかったけれど、何の制約も無く歩き続ける旅路は新鮮だった。
目的地に近付くほど降雪は深くなり、吹雪もあった。雪の旅路は方角を見失い易く、余裕をもって進むべきだという掟は骨身にしみている。だから安全第一に進んでいたのに身体は疲れを知らず、意識も曇りなく冴えていた。だから歩き続けていた。
一面の銀世界を進む旅路は、真夜中でも白く発光したように明るかった。
村に着いたのは日暮れだった。夜盗と勘違いされたくなかったので、風を避けられる場所を探して一晩野営した。火を見つめるのも飽き、雪に足跡をつけながら朝を待った。
よく晴れて身の芯まで凍え切る、冷たく澄んだ満月の夜だった。
村の人間に話をつけて墓地まで向かった。母の墓前に手を合わせる人間は今もいるそうで、怪しまれなかった。私を覚えている人間は居なかったので安堵した。母や兄と比べ、同年代の子どもとすら交流の無かった人見知りが功を奏した。
村の大人に手伝って貰いながら弔ったのと同じ場所に、母の墓があった。
軽く雪を払い、粗末な墓標に手で触れる。
「……貴方の墓前に立つのが怖かった。ずっと。……でも本当は、もっと早くに伺うべきでした……けじめに来ました、母さん」
母が亡くなってからの日々を思い出し、先ずは全てを報告した。
よりにもよって、母を加害した男に捕まったこと。母から貰った身体を守れなかったこと。歌声も、出なくなったこと。――師匠に拾われ、職場に恵まれ、望む全てを頂いてきたこと。マキさんに再会し、色々あってお世話になっていること。座長殿に会ったこと。
兄と、再会したこと。会いたくなかったこと。自分の過去を知られたくなくて、人格と経歴を偽って騙し続けていること。全て話し切った。
昔話にきりはなく、語り明かすだけで日が暮れてしまいそうだった。
「……私の話はこのくらいに。貴方の話をしましょうか、母さん。……マキさんは、貴方との約束を守ってくださいましたよ。伺いました。私たちの生まれた経緯」
楽団を潰すと脅され、加害男性から望まぬ関係を強いられた。
だから男に抱かれる前に「賭け」として、自分が信頼できる支援者の不特定多数と肉体関係をもった。加害男性からも強姦され子を身篭ったが、男親が誰かは分からない。
舞台を去って村に身をひそめ、私たち双子を育ててくれた。
「……ごめんなさい。私はこの事実を、兄さんに伝える勇気はありません。……必要なら、アオ殿が話してくれるかなと思っています。その他の支援者の方々も、兄さんとは良好な関係を築いているそうなので」
母は、ずっと苦しかっただろう。なのに笑っていてくれた。
最後の抵抗に「賭け」をしたとはいえ、強姦の結果に孕んだ子を産み育てるなど。辛い記憶を思い出す引金でしかなかったはずだ。母の自由と未来はもちろん――歌わなければ心が死ぬ生粋の奏者から、歌が奪われたという徴なのだから。
何よりも私自身が、その不自由の証であった。無知は罪だ。
「……望むはずもなかった子に、いたみでしかない我が子に、それでも貴方は笑ってくれた。私たちに負い目を感じさせず育ててくれた。……やさしい体温を、わけてくれた」
母は、私たちを愛してくれた。無償の愛を注いでくれた。
墓標に触れたまま、目を閉じた。
「……一人前に育ててくださって、ありがとうございました。貴方の苦しみに気付けなかった出来損ないで、ごめんなさい」
無機質な石に、私の体温が移っていた。
墓地はもう暗かった。
村に戻ることも、母の墓前に留まることも躊躇われた。自分が居てはいけない気がした――すると自然に、許されそうな場所がひとつしか残らない。
去る前にひとつ、良い報せを伝え忘れて墓前に戻る。
「母さんの初恋の、好い人。アオ殿ですよね? 兄さんの男親はあの人だと思います。仕草がそっくりで……それに青い髪。兄さんの黒髪が陽に透けた、鮮やかな青と同じ色だ」
貴方の望んだ子は、貴方との約束をきちんと守り、在るべき場所に至っている。
母のささやかな願いは叶っていた。誇り高く清廉な彼女の精神に報いる、せめてもの手向けになるだろうか。少しでも、母の痛みを和らげてくれたらいいと思った。
森へ向かう。深いやぶの雪を踏み分けて、古い記憶を辿る。
子どもの足で長かった路は、大人の足ではそうでもなかった。幼い頃にマキさんと会っていた、信仰が絶えて廃れた社はまだ在った。
崩れかけた石段の雪を払って腰掛ける。息が白む。景色の全てが小さく見えた。
荷物から干し肉を取出して供え、手を合わせてお邪魔しますと謝った。花でも持ってきたらよかった。子どもの頃なら、菫の花でも添えていたのに。
不思議と、社にはさほど積雪がない。
風が吹きつけ積もらない条件にあるのかとも考えたが、石段に腰掛ける限りはそうとも感じない。むしろ無風で心地好い場所だった。
周囲を見回すが理屈もよくわからず、まあいいかと膝を抱えた。
「こっちにおいで。そんな所に居たら凍えてしまう」
大人の声が聞こえた。
社の中からだ。生き物の気配は感じないけれど――暖かな血色の手が、私を手招いていた。
「……そこは、私が立ち入ってよい場所ではありません」
「良いんだ、かみさまの許しがある」
私としても、朽ちかけとはいえ屋根と壁がある場所の方がありがたい。
その手に敵意は感じなかった。懐かしい心地すら、ある。
片手しか見えない、怪異かも知れないものに郷愁を覚える意味は分からないけれど。人でないことが問題とは思わなかった。少なくとも声には、穏やかな親しみを覚えたから。
礼して近寄り、手を取った。熱は無いのに「暖かい」と感じた。
「行くあてが無いなら此処に居なさい。上手にかくしてあげるから」
