彼女と転職のすすめ

 北へ一時帰宅した。マキさんも来た。師匠から「変態引っ付けて来んな」と言われた。
 師匠は彼を警戒していた。師匠個人について、マキさんから探りを入れられていないか尋ねられた。聞かれても喋る気はないと伝えたら、微妙に猜疑の薄目で見られた。
「……あの変態にほだされてんじゃないの?」「関係ありませんよ。師匠、言ったら嫌がるでしょう」「そうだけど」「なら尚更しません」他人のこと言い触らす趣味も無い。
 師匠から同様に、マキさんの身元も探られたが拒否した。というか知らない。
「歌えたら、楽団に行きたかった?」
 師匠から、何でもない風に聞かれた。
 薬毒物を整理する手が止まった。うまく声が出ない。
「……いや、歌えませんし。諜報の仕事だって」
「あれけっこうタタラの裁量もあるから、動ける人間で可能な量しか来ないの。あんま気にしなくていいよ。君がいない間は一人分の量に戻ってたし」
「琥珀」が居てもいなくても変わらない。どちらでもいいし、問題ない。
 当たり前のことを当たり前にすらすら並べられて、痛いと言うほうがどうかしている。
「帰れる場所、あったんでしょ。歌えなくたってやりようはあるんじゃないの。別に、こっちに義理立てしなくていいから」
 ひと通りまくし立てて満足したのか、師匠はさっさと居なくなった。
 元より師匠は一人で十全に仕事をこなしてきた人だ。新人の有無など関係すまい――けれどあの物言いは、歌えなくて仕方なく居るくらいなら辞めろとでも言いたげな。
 元気いっぱい鬼を殺してきた人間が「仕方なく」に見えるなら、師匠を医局に押し込まねばならない。
 師匠はあれでまともな所があるので「真っ当な職に戻れば?」が三周半くらいこじれて出力されている可能性もある。次会った時は言動を注視しよう。様子がおかしいようなら、今度は私が師匠を絞め落とす番だ。

 花街は相変わらずの賑わいだった。
 乱闘騒ぎで娼館を出禁になっていないか心配したけれど、損害に関しては約束通り師匠が埋め合わせてくれたらしくほっとした。中央で最近流行りの菓子や茶を差し入れ、お姉さま方にも詫びを入れながら奥へと通してもらう。
 手紙で重ねて心配くださった翡翠ひすい殿から、挨拶も中途に抱き締められた。びっくりした。
 紅茶のかたわら、同居人――マキさんのことを聞かれた。人柄や見目程度。回答可能な範囲だったので助かった。連れて来たら良かったか伺ったところ断固として拒絶されたので、とりあえず質問に答え続けた。食い気味に喋る彼女は初めて見た。
 朗読は喜んでいただけた。いつもは休憩を挟むのだけれど、続けて欲しいと言われるままに夜を明かした。藍から青白んでいく淡い空の色が、物語に描写される、霧にけぶる湖の静けさを思わせる。
「座っていないで、おいで」
 寝台に腰掛ける私に、寝転びくつろぐ彼女が微笑む。
 翡翠殿は近寄られるのを好まないため控えめにお邪魔したところ、半端な隙間をぽんぽんと叩かれた。も少し近寄り、催促が止む。
「……存外、怯えた。君はもう、来てくれないかもしれないと」
 綺麗な指。品良い爪紅が鮮やかだ。頬から喉に滑る感触がむず痒い。
「君が過去に触れられて、壊れかけた日。私の元にかくまえなかったのが悔やまれる。そうすれば娼館うちの人間として囲えただろうか……君の師が少々厄介かな」
「……雇用は有難いお話ですが、身体検査されると性別が言い逃れできないので」
「遊女として雇うわけないだろう? 私に毎夜、声を聴かせてくれればいい」
 辞めろと言われたり雇うと言われたり忙しない。念のため雇用条件を尋ねたところ真剣に悩まれて「後で通知しよう」と言われた。合間にもずっと喉元をくすぐられ、何となくいたたまれなくなって止めてもらう。残念そうに手を引かれた。
「琥珀」
 彼女が身を乗り出した。名前と同じ翠の御髪が、天鵝絨ビロードの天幕みたいに降りてくる。
 朝の光に染まる彼女がひどく寂しげに見えた。御髪をすくい、軽く唇で触れる。
「また、新しい物語をお持ちします。貴方が望んでくださるなら」
 役割を貰えるのは――楽なのだろう。だから、しがみついている。
 師匠から「琥珀」の存在意義を剥奪された錯覚で焦った。いま彼女に雇われても、きっと仕事に依存する。何処にでも行けるよう身に付けた技術でこれは本末転倒だ。

 師匠は、縛らないと言ってくれた。選択肢が増えただけだ。
 マキさんが同居を継続させたのも、考える時間を与えてくれたのかもしれない。便利屋での職も、彼女からの雇用も、それ以外でも。猶予と選択肢を貰えているのだから、考えなければならない。
 そうなると、避けては通れない場所が有る。

 頂いた匂い袋から、翡翠殿と同じ香りがした。心強かった。