不仲③

 少女の母親は俺を引き留めた。時間は持て余している、断る理由もなかった。
 星を数える声が、真夜中の冷えた空気を震わせるのを聞いていた。まだ夜明けは遠い。痩せた手が子をあやし、双子は猫のように寝返りをうつ。俺は何度か毛布を整えた。
「もし、子ども達との出逢いと、舞台で歌い続ける可能性をはかりにかけられたなら。僕は迷わず歌を選ぶだろうな」
 一を極めた人間の執念には不思議が宿る。人心を惑わす絵画、精神を狂わす文学作品――常人を逸脱した才能はときに鬼才と呼ばれてきた。少女の言う歌の魔法もそれだろう。
 過ぎた感情は毒。その毒に適合してしまった鬼才のものは不死へ行き着く。この母親も、病さえ無ければそこへ至ったはずだ。
「本音を言えば死んでやろうと思っていたさ。それを引き留めてくれたのは、間違いなくこの子達だ……だから、そんな顔をしてくれるな。マキ」
 眉間を押される。意図は知らない。
 これも例に漏れず、歌を第一にした生き物なのだろう。まともな家庭を築ける人種ではない。過ぎた才ゆえ不死へと至るものなど、ろくでもない人間ばかりなのだから。
「……この子達がどう生きて、どんな奏者になるのか。見届けたかったよ」

「見届けられるとしたら」
 どうする、と。問い掛けていた。

 子を撫でる手が止まる。だが、さほど驚いてはいない。
「……吸血鬼ヴァンパイア眷属けんぞくとなって、共に悠久を生きる従順たる傀儡かいらいというやつか。よく知れた御伽噺だな」
「不死と生き餌は合っている。隷属かは知らない」
 怪物を定義するのは民衆だ。すると彼らのほうが、俺たち怪物のかたちを承知しているのだろう。もしかすると俺たち自身よりも。
 歌というのは伝承や物語の類も多いと考えれば、この訳知り顔も得心がいく。
「体質が合わずに死ぬのが七割。三割で、自己治癒力の飛躍的な向上が見込める。その病も治るだろうが……そうなれるまでに時間がかかる。治癒が間に合うまで身体が保つかはお前次第だ」
 この人間に寄り添う「死」は、色濃い。
 いまにも臓腑を食い潰し、息の根を止めようとしている病魔を、この不死が相殺できるかどうか。ほぼ死に体の身体が快復するかもわからない。
「そうなりたいなら『許可』するといい。その身すべて、俺に委ねると」
 分の悪い賭けだが、危険リスクで尻込みする性質ではないだろう。沈黙が続いた。

 けれども母親は、首を横に振った。迷いは無かった。
「俺も表現者のはしくれとして、隷属はいただけない。……この心を捧ぐのもただ一人だ。それくらいの操は立ててやろうじゃないか」

 ■

 春の気配が近付いている。
 凍る水の張りつめた空気に、ほのかな青さが混ざり始める。人の鼻には嗅ぎ取れない微かなほころびが、雪下の土に忍び寄っている。
 夜明けまで楽しそうに話し続けていた、死人の顔色をした女のことを、思い出す。
『全盛期でなかったことを幸運に思うといい。次に逢うことがあれば、心まで捕らえてやろう。安心してとりこになっていいぞ。後悔はさせんさ』
 大粒の雪が降りしきる。これが最後の降雪だろう。
 緩慢な陽気の訪れと雪融けを待ち、少女が再び社に踏み込めるまでは、もう暫く。
『魅了の毒は使い慣れているとみえるが、使われる側は慣れてなかろう。甘く見てくれるな。お前が人に類するものである限り。心を解する限りは、俺達の付け入る隙だらけだ』
 魔法について、母親は核心を語らなかった。含んだ笑みを意地悪くにやつかせる様子は、勝利を確信している顔だったが。
 奇妙な話だ。意図は未だ知れない。二度と会うこともないだろう。

『見る景色すべて、あたらしい色に塗りかわる。そういう魔法さ』
 死者を弔う煙の帯が、薄く、曇り空へと伸びていた。