「ん」
彼は甘いものが好きだと、私は知っている。
「大学で貢がれた」
「なるほど。大学生くらいのお年であれば……『ポッキーの日』と仰る、あれでしょうか?」
「そ。それ」
鼻先に触れていた紙の箱が、すいと離れる。
お仕事終わりにふらりといらした棗さんは、もう外套を脱いで、お寛ぎになられている。手土産と仰って取り出したそれは、テーブルの上に、まずはひとつ。
棗さんの鞄は底無しのようで、スーパーやコンビニで見掛けるあのパッケージが、出てくる、出てくる――まるで際限がない。原色の赤と、黒と、苺味の桃色。
瞬く間に山となった積み木は、赤色が優勢。
均衡が崩れた山を、赤色の積み木が滑っていく。それを均整のとれた手のひらがすくい上げて。
そのまま箱は、折り開かれた。
「口」
「はい?」
「開けろ。何回も言わせんな」
一本。
御礼が口をつきかけた矢先、もう一本。
「え。な、つめさ、」
三本、四本、五本、六本、細身のチョコレート菓子は次々と差し込まれ、喋ることもままならない。
困りました。とても。
一体これは、棗さんは、何をお考えで
「何。文句あるなら口で言ってみろよ」
――ああ、楽しそうなお顔をしていらっしゃる。
確かに、いまの私はさぞや愉快なことになっているのでしょうけれど。いささか理不尽ですよね? 私、喋れないのに。
碧眼は意地悪く笑み、その指で次のお菓子を摘もうとなさっていた。ええと、……何本めかは、怪しくなってしまいましたけれど。棗さんなら躊躇はなさらない。
――早急に食べ進めないと窒息する。
奥歯のほうで小気味よく、硬いビスケットが砕けた。
チョコレートの塗装が蕩けてしまっている。すこしふやけた甘さがほろほろ零れた。菓子を咥えたままというのは相変わらずおかしいのでしょうけれど、ちょっとずつなら、どうにか。食べ進めていけそうだ。
予想外に順調なあたり、拍子抜けのような。たぶんあの人からすれば、面白くない――
ぱきり。
「あ」
残り少なくなっていた菓子は、棗さんに手折られてしまった。
チョコレートの溶けたところと、地肌の残る持ち手が離れていって、つい。目で追いかける。
折れたはしきれは、その人の口に放り込まれてしまった。
視線に割り込んできた碧眼は、妙に不満げでいらっしゃる――いえ、そんな事だろうとは思います。
「何フツーに食い進めてんだよ」
「ご主張があんまりですねえ。ああ、やめて下さいまし。お菓子が粗末になってしまいます」
「君がその邪魔な手退けて、口開けりゃいいだけ。粗末にしてんのは君のほう」
「その束は流石に抵抗したくもなりますゆえ。突っ込まれる側の心情も複雑なんですよ」
「両刀節操無しのヒモ野郎がなに生娘みたいな台詞抜かしてんだよ」
「『元』です。若しかすると棗さん、突っ込みたいご気分でいらっしゃいますか?」
「んな話はしてない。ほら、溶けてきてるけど。どうするつもり?」
とんとん、と。手の甲に軽く触れるチョコレートは、とうに体温と同じ温さになってしまっている。お菓子の束は正しく悪ふざけの重量のそれ。
――ううん。致し方なし。
塗装の溶けた菓子の先端に、ひとくちで噛みついた。
ビスケットの粉が落ちた。唇に違和感がすこし。たぶん、チョコレートが付いているのでしょう。
「お八つの楽しみ方に、茶々を入れるつもりは御座いませんけれど」
今日の棗さんはおかしい。私にお菓子を与えついで遊んでらっしゃるのは別なお話として。
あんなに甘い物のお好きな方が、ご自分では一本もまともにお召し上がりでないなんて。
舌でなぞった唇は甘い。舐めとるのはそこそこにして、先端だけを不自然に欠いた束、うちの一本を引き抜かせていただく。
器用に一本ずつ拘束をゆるめ、私に「食べさせてやる」ご当人はといえば、
「きょう一日でうんざりしてんの。向こうひと月は見たくないね」
「成程。ポッキーゲーム、ですか? いいじゃありませんか。微笑ましくて」
「見たくもないモン見せられる方の身にもなれって話。製菓会社の策略なんて知ったこっちゃないけど、『そういう日だから』なんて当然みたいな顔させる免罪符なんざ流布すんな」
半分ほどに減った束を押し付けられた。受け取ったそばから、指の熱でチョコレートが溶けていく。賑やかな積み木の山までも此処に置いていくと宣言なさった辟易ようでは、もう暫く、ご自身でお召しにはならないでしょう。
数本まとめて、ぱきりぱきりと食べ終える。唇の周りを拭いついで、指に纏わる甘いものを、最後のひと舐めまで味わってしまう。
チョコレートというわりにくどくない。次が欲しくなる、良い塩梅の甘さだと思う。食べる度に賞賛が――
「……菓子屋。お前それ外でやるなよ」
「失礼、お見苦しい所を。こういった折に育ちが知れてしまいますね」
「……まあ、僕は別にいいけど。そもそも君に育ちの良さなんて求めたこと一度たりと無いから」
「それはそれで寂しいと申しましょうか。手、洗って参りますね」
こんなに美味しいのに。難儀なかた。
