錆びた動物病院の看板かたむくコンクリートの屋上階。小柄な少年がへりに腰掛け、ぷらんと足を宙に投げ出す。汚れたスニーカーが夜を蹴飛ばした。
少年は調査依頼を請ける個人業者だ。
情報屋と呼ばれる界隈の端くれで飯を食っている。職質上、物騒な人脈を蓄え白昼刺される業者も多いが、少年の情報源は鳥類や野良猫であるため他社よりは平和ぼけている自覚があった。
とはいえ、人間の情報は人間のコミュニティから収集するほうが効率がよい。少年の客層はもっぱら失せモノ探しであり、それが他社との棲み分けだ――正直なところ競合も棲み分けも知った事じゃないのだが争いの種は少ない方がいい。少年も鬼だけれど異能特化で身体能力は下の中、屈強な人間達に囲まれたらコンマ一秒で命乞いする自信があるので。
ただし例外はある。
協力者である烏からの報告に、少年は眉をひそめた。
少年は現在、とある殺し屋「死神」の身辺調査を請けている。
固定給プラス出来高払いの長期契約は、依頼主が外面だけ綺麗な気分屋爆弾人間という不安を凌駕して余る好条件だ。
殺し屋とはいえ(おそらく)人間相手の案件。他のいかめしい情報屋達に「ご挨拶」されないか戦々恐々としていたものの杞憂に終わりほっとした。
その理由は、調査を始めて直ぐわかった。
待伏せは不発、先回りも察知され失敗。廃屋の屋根やら廃ビルの屋上やらをぽんぽん飛び回る輩はとてもじゃないが追跡できない。協力者との視覚共有も、動物の意識に監視が混ざった瞬間するりと逃げられる。
匂いの追跡は、香水か何かが厄介で個人の体臭が判別不可。香りの種類もころころ変わる。
この野生動物の活動拠点、及び協力者を割り出す依頼――とんでもねえ難題らしいと気付いてしまった。
同業他社でなく少年に白羽の矢が立つのも道理だ。人の気配はことごとく察知されてしまうのだからそりゃ無理だろう。人間以外の協力を得られる彼が適任というか最後の望み。
彼も現状、烏たちに協力を仰いで遠目に見張ってもらうのが精一杯だ。
『拠点が裏街にあるのは間違いない。交代で尾けようか?』
「気持ちだけもらうよ。ありがとう、いつも助けてくれて」
報告に来てくれた烏にお礼を渡す。
彼らはとても良い友人なので軽率な判断はしたくない。殺し屋が動物に刃を向けたことは無いが、意図に気付かれ危険が伴う可能性は十分にある。
『先ほど、きみのねこが接触を試みていたよ』
「え、――みそらさんが!?」
『心配しないで、何もされてない。そろそろ帰ってくる頃だ』
りん、と。返事のような鈴が鳴った。
少年の背中にずしりと重みがかかり、三毛猫がするする肩へと登って腰を落ちつける。首周りの柔らかな体温に安堵したのも束の間、鼻についた血の匂いにヒュッと息が詰まる。
『血? あいつの顔バリッとやったからかな』
「なんでえ!!」
慌てて猫の手を掴み爪を出した。土汚れに混じり血が乾いている。
三毛猫、みそら――彼女は死神に近付きたくないと常々ぼやいていた。『なんか嫌な感じするから』と遠巻きにされる殺し屋は、動物に好かれない人間の典型らしい。
『思いっきり爪立ててあげたからね。布巻いてたって無駄よ、無駄』
「……嫌だったでしょう。みそらさん、ごめんね」
『あのさぁ。わたしたちを心配してくれるのは嬉しいけど、遠慮できみが食いはぐれるのは嫌だもの。勝手に動いちゃうよ。烏で徹底的に尾行させれば顔くらい分かりそうなのにやらないし』
少年の首筋に額をぐりぐり擦り付けながら、尻尾が不満を含んで彼を叩く。
少年は苦笑しながら彼女を抱きかかえた。
「急いでないから大丈夫だよ。死神がなかなか裏街に来ないのは分かってもらえてるし……継続的にめぼしい噂が欲しいからの契約だって、みそらさんも聞いたでしょ」
『そうねえ。ま、彼のことは嫌いじゃないからやる気出してるんだよ。烏たちも似たようなもの』
「そうなの?」
『きみだけじゃなく、わたしや烏たちにも挨拶していった依頼人は初めてだからね。うちのやり方やきみの人柄を理解した礼節ってやつだよ』
「みそらさんが言うならそうなのかなあ」
正直なところ依頼人はおっかなかった。言葉は少ないし睨むし身長があって威圧的。見蕩れてしまいそうな端正な顔が苛立ちを隠さず歪み、破落戸共の返り血を浴びることを知っている。
その本職が鬼狩りであることも含め、機嫌を損ねたら首が落ちるんじゃないかと怯えながら応対している。
『きみとおんなじ。飼い猫には甘いたちじゃないかなあ』
「そう……? あと、みそらさんはペットじゃないよ、相棒だよ」
『うふふ。これだから好きだよ、ご主人』
彼女がひときわ高い声で鳴いた。
『顔に猫の引っかき傷がある人間。烏たちに探してもらったらどうかな』
怪我は治ってしまっていて、小さな瘡蓋しか見当たらない。猫の傷かと聞かれても確証が持てない――けれど。
目星をつけた候補の観察、その十数人目か。路地に身を隠し唖然とする少年とは裏腹に、彼女はにやりと笑って喉を鳴らした。
『ほうらやっぱり。身内には甘い顔をする』
友人の浮いた話を面白がるような響きだ。
少年たちの見守る夕暮れの街で、青年が二人肩を並べて歩いている。うちの片方、見間違えもしない依頼人の男は業務連絡の冷徹さが嘘のように綺麗な顔で唇をつり上げる。
男の表情は隣の馬鹿を諌める呆れ顔ばかりだが、それでも親しみを含んで楽しげだ。小気味よい言葉は時おり毒が混ざっているものの、それがきちんと応酬する辺り、友人側も承知している距離感らしい。
「……あの人の友だちなら違うんじゃないかな、」
『傷が浅いのだけ引っ掛かるなあ。肉、だいぶ深めに抉ってやったんだけど』
「みそらさん、次の人の所いこ。業務連絡以外は関わらないって契約だよ」
『面白いから見てようよ。というかあれ死神かもしれないんだよ? 立派な調査に違いないのに』
「仮にそうなら殺しあってる相手と友だちしてることになっちゃうから」
『あはは、そりゃ傑作だね!』
「だから無理だよって話してるの!」
のほほんと笑う見知らぬ男に嘆息する。
あの野生動物が、この距離の監視を察知しないはずがない――ちりと刺さった視線は依頼人の男のもので、少年は反射的に口を噤んだ。
碧眼の流し目は、器用にも一瞬だけ「仕事」の冷たさを纏った。青ざめた少年が彼女を急かして場を離れる。
正真正銘、依頼人の隣で友人の顔をして笑う昼行灯が死神であるという真実には至らないまま。
