3-10-2

 日の落ちた街を、転がる様な足音が駆けていく。
 暗い深緑の隊服がはためく。武具の携帯と荒事が許される免罪符が、病室に置いてあったのは幸いだった。
「街中で立ち竦まれたら困ります。音はなるべく聞かないように。足元だけ見て、転ばないことに注力してください」
 鏡が手を繋いで和泉を導く。その隊服を映した鏡もやっと、悪目立ちする白ワンピースを着替えることが叶った。
「かっこいいー……相良、やっぱりなんでも似合うなあ。髪邪魔じゃない? 結んだげよっか?」
「ところで、北支部には女性隊員がいないという噂ですので。私の件、誤魔化すのはお願いしますね。兄さん?」
「うっ……ねえ、その言い方はずるい!」
 抗議しつつも、兄心を擽られたことには正直だった。「相良に頼られたら何だって出来るよ」と、息切れで苦しそうな顔に笑みを浮かべてみせる。
「……死人に夢なんか見るな。馬鹿兄が」
「相良はそんな乱暴なこと言わない」
「だから。あんたの妹じゃないんですよ。ままごとに付き合わせないでください」
 街頭の立ち並ぶ石畳に、いくつもの影法師が重なり、廻る。
 駅前通りから狭間通りへ。二人分の影が、路地の闇に飲み込まれた。

 夜目に慣れない和泉が頼るものは、握った手のひらそれひとつ。大好きな記憶と同じ熱。
「……大丈夫。……たぶん、本当はずっと、分かってたよ。信じたくなかっただけ」
 細い路地に、廃墟の壁に。音が幾重にも反響する。
 自分たちではないノイズの混じりに気付いて、和泉が咄嗟に立ち止まる。
「……っあ、」
「下がって」
 鏡の手に、和泉の見慣れた刀が握られている。
 黒い影にしか見えない敵が二人。躱しざまに片方の足を掬い、もう一人が突き出したナイフを弾く。「和泉!」――急かす声を聞いた瞬間、嘘のように硬直が解ける。手を握ってまた走り出す。
「それ、俺の刀? ……それに相良、なんで」
「……私の映すものが、隊服だけだとお思いですか」
 握った手に引かれ、がくんと体勢が落ちる。
 和泉の頭上を拳が掠め、鏡が敵の鳩尾へと刀の柄を押し込む。倒れる巨漢を横目に走る。
「この姿も、今のこれも同様に。私はただ、貴方の記憶と経験を写し取ったに過ぎない」
 和泉を庇いながら障害を排し、その足は止まらない。
 刀を抜くこともありながら、すべて峰打ちで血を流さず無力化する。
「……俺は、こんなに凄くないよ」
「多少は強化して色を付けています。ただし私は、無いものを写せはしない。……貴方がいまの私を眩しく思うのなら、それは」
 言葉を切って振り向く。和泉を押し退け、背後から迫ってきていた女を捉える。手首を叩き、取り落としたスタンガンを蹴り壊す。
「貴方が血を吐いてでも選んだのは、そういうものだったのでしょう」
 目的地の廃墟をすぐそこに見据えて、五人の男女が二人を囲む。
 恐らくは、警備に雇われた荒事屋だ。本命の建物の中には、もっと多く居てもおかしくはない。
 敵の動きを見据えたまま。言葉だけは、和泉に託す。
「……手が動かないのなら、足が震えるのなら。せめて、目を開いていろ」
 鯉口を切り、刀を抜く。和泉がろくに動けない丸腰だと見抜かれている――なら。囮に使って釣り出しながら、守り切ればいい。
「貴方の『選択』こそが手繰り寄せた結果が、どの様なものであるのか。その両の目に焼き付けなさい」

 自分は間違いだと言われ続けてきた。
「俺」を肯定してくれるものは、たったひとつしか無かった。そのひとつに縋り続けて生きてきた。それでも彼女は俺以外には見えなくて、だから心は何度も死んだ。
「貴方の在り方を選ぶのは貴方自身です。過去の己を貫くのも、全く別の道を歩み始めるのも自由だ。後から心変わりしてもいいし、何も選ばないだけの時間があってもいい。人の気持ちなんてものは幾らでも変わる」
「俺」を取り戻して、懸命に積んできたものを、根こそぎ奪われた。
 絶対だった彼女の影も喪って、「俺」の居場所は俺の中にすら無くなった。自分の弱さを思い知った。奏者としての限界まで――頭も身体もぐちゃぐちゃにされて、俺はもう、壊れてしまったんだと思った。
 あの人の恐怖が染み付いている。声だけを悪夢に見る。
 大好きだった人達に会えなくなった。傷つけてしまいそうだったから。その笑顔の中身を、どこかで疑ってしまう自分がいたから。
 時おり、自分が自分じゃなくなるみたいにパニックを起こした。その度に申し訳なくなって泣いた。泣くとまた、弱い自分が嫌いになった。
「その選択がいかなるものであろうと、私は貴方の味方です。……でも貴方はもう、自身の証明を、他者に頼るだけのものではないのでしょう」
「俺」を形作っていた悔しさを、思いだした。
 始まりは全て彼女の為だった。「俺」を証明してくれるのも彼女だけ。だけれど今は、少し違う。
 どれだけ否定されても、壊されても。自分でもよく分からない形に変わり果てた心でも――後悔したくないのだと軋んだ。
 俺は初めて、「俺」を見つけた気がした。

 ろくに動けるはずもない体を、連れ出してほしいと無理を言った。知ってはいたけど手足は動かない。大事に庇われ手を引かれ、何もかも頼り切りだ。本当にどうしようもない。
 壊れているのに意地は通したがるなんて、迷惑でしかない。
 それでも彼女は我儘を聞いてくれた。俺が目指していたものの形を見せて、背中を押してくれた。
「……っ和泉、!?」
――この気持ちを知っている。
「……そっか、二人も減らしてくれたんだ。……ここまでずっと、ありがとう。ごめんね」
 誰かを守れる人でありたい。よく知っていたはずの衝動がひどく懐かしかった。
 今なら全部、自信をもって言える。

 人が怖い。外の世界も怖い。
 少しだけ、好意に身構えてしまう。
 自分の無力を嘆きたくない。
 守られるより、守れる側の人になりたい。
 ここまで励まされて、まだ動けないなんて、嫌だ。

「俺の刀、貰えるかな」
――紫乃ちゃんを、助けたい。

 使い慣れたはずの刀は、知らないものみたいに重かった。
 刀の代わりに、荒事屋から奪った警棒を携えながら、彼女は声を低くする。
「……貴方が倒れては意味がないんですよ」
「うん」
 対策部に戻れるかどうかは、正直なところ分からない。
 受け容れられない感情に直面するのが怖い。生ぬるい血が通った泥を飲まされる感覚に、脂汗が滲む。
 対策部は、ひとの願い――実った「呪い」を摘む場所だ。
 遅かれ早かれ「それ」に出逢う。何度だって。対策部はそういう場所だ。目の前にした時、自分が正気でいられるかわからない。
「……ごめんね。俺、きちんと動けるか分からないかも」
「こちらの戦力が二人になったんです。丁度いいハンデとして、くれてやりましょう」
 すこし歪んだ警棒を構える――和泉と寸分狂わず対称な、鏡写し。
「念押ししますが、私は鏡だ。貴方が負ければ鏡像わたしもそこまで」
「分かった。俺は、どうすればいい?」
 それでも刀を握るのは、このままでいたくないからだ。俺がそうしたくないからだ。
「……諦めの悪さを、所望します」
 彼女に守られているだけは、嫌だ。
 隣に並び立てる、対等な兄でいたい。
「それなら大丈夫。任せて」
 俺しか知らない妹の存在を訴え続けた。どんな手段を使ってでも探し出すと誓った。いないと分かっても諦めきれずに、自分の空想を実体にまでして。
 諦めの悪さだけが取り柄だ。
 気持ちだけなら、俺は、誰にも負ける気がしない。

 鏡がちらと、和泉を見た。構える刀が震えているのを見逃さない。
「けしかけた身で言うのもあれですが、……無理をしますね。貴方は」
「痩せ我慢にしか見えない?」
「……無理ができる人は、無理に慣れる。……彼の台詞はそういう懸念だ。たぶん、貴方を心配していた」
 手の震えは、怯えのせいか。走り通しで体力も限界だろう。
 入院で筋力の落ちた身体は、そう長くもたない。和泉を動かすのはなけなしの信念だけで、身体と心はついていけず置いて行かれている。
 それでも鏡は笑みを浮かべた。和泉の記憶にある妹を映す。
「格好いいですよ。今の貴方は、とても」
 和泉の顔がぱっと明るくなる。
 緩んだ空気を見逃さず、相手が動いた。和泉はにこにこと鏡を見つめている。
「私ではなく前を、っ!」
 鏡の身体が引かれ、傾ぐ――鏡の死角に潜んでいた一人のこめかみを、和泉の刀が殴打した。
 そのまま、刃の軌跡から鏡を庇う。微かに血飛沫が舞った。
「俺の目の前で、相良に傷ひとつ付けられると思わないで」
「……私はともかく、貴方がやられたら共倒れだと言ったのをもう忘れたんですか!?」
「俺は相良を守る、相良は俺を守る! これなら解決!」
「……こ、んの、……っ馬鹿兄が……!」
 鏡も鏡で体勢を崩しながら、和泉を狙う二人を牽制する。奇しくも和泉の言った通りだ。
 背中合わせに得物を構える。ぴたりと重なる背丈の呼吸は、同一の生きもののように揃っていた。
「……俺達って、相手の傷ばっかり気にしちゃうんだ。補い合って、守りあって生きてきたから。相良を守るのは俺で、俺は相良に守ってもらって……でも、もう、それじゃあだめだね」
 背中は預けた。互いに振り向かない。
 前だけを見据えながら、和泉は少し寂しげに笑う。
「俺だけじゃあ半人前で、『ひとり』にだって足りないけどさ。……それでも、どうにかやっていけるように、頑張るから」
 
「……欠けのない人なんか、どこにもいませんよ」
「……そっか。えへへ、ありがと」


 生まれて初めて腹を殴られた。あまりの痛みに死を予感した。
 手足は縛られ芋虫同然、目隠しをされて現場は不明――それでも何だか聞き覚えのある怒鳴り声が、風に運ばれて聞こえた気もした。わたしの妄想という可能性は大いにある。
 初誘拐、初猿轡。二度とごめんだ。
 自由がきく知覚は耳だけ。この硬い床に、何時間放置されているかも分からなかった。ただ、縛られたまま出来ることも特にない。いっそ眠れればよかったものを、わたしの神経はそこまで図太くはなかった。
 不安で怖くて死ねそうだ。
 実際、失神の間際に覚悟した。走馬灯は見えなかったけれど、心残りはある。
 彩姉と喧嘩したまま死ぬかもしれない。
 ほんとに死んだら、どうなるだろう。あのピンクのおねーさんは、わたしへの認識を改めてくれるのかな。
――和泉君はもう一度、笑えるようになるだろうか。
 犯人への憎しみは消えない。殺してやりたいとも思っている。けれど、そんな事よりもずっと大事なのは、彼が立ち直れるかどうかだ。

 もしも今、ひとつだけ叶うなら。
 高望みはしない。たった一言でいい。
 わたしじゃない、他の誰かに向けられたものでかまわない。わたしはそれを草葉の陰から聞くので充分だ。彼の心が救われた結果なら、何だっていい。

「っ紫乃ちゃん!!」
 もう一度――あなたの声を、聴きたくて。

「……えっと、……わたし、ついに死んだ?」
「まさか、怪我してる!? 見せて!」
「ああいや。ぜんぜん」
 死ぬほど会いたかった彼が、目隠しを外してくれた。くしゃくしゃに泣きそうな顔をして、よかった、よかったと。壊れたみたいに繰り返す。
 わたしの拘束を解く指が震えている。ほとんど力が入っていなくて、わたしよりよほど体調が良くないのが見て取れた。
「大丈夫、だいじょうぶ。けがはしてないし、あとは自分で解けるよ」
 むしろどうしてここに居るのか問い質したい。
 へらりと笑ってみせる。俯いた黒髪頭を撫でくり回す。茶化すのも良くはないだろうけれど、それ以外に、彼を安心させる方法が分からなかった。
 やっと両足が自由になりそうなところで、彼の顔が見えなくなる――
「……遅くなって、本当にごめん。……気を遣わせてるのも、ごめん。紫乃ちゃんが、いちばん怖かったはずなのに」
 わたしより高い体温に包まれる。彼の心臓はばくばく暴れていた。呼吸の音まで聞こえる距離にいる。普段なら発狂ものだ。けれど今は、とても、よろしくない。
 駄目だ。だって、こんなの――泣いてしまう。
 怖かった。半分くらい泣いていた。何をされるか怯えながら、暗闇に放置される時間は心細かった。嫌な想像ばかりして、勝手に加速する悲観にすり潰されそうだった。
 情けない声が出る。声をあげて泣くなんて、何年ぶりかわからない。彼がずっと背中をさすってくれた。その温かさに、ますます涙が止まらなくなった。
 いつもわたしばかり助けられている。
 不甲斐ないのに、わたしから返せるものがない。彼の大事にすら、何もできなかった。わたしを救ってくれた彼を、これっぽっちも助けられなかった。
 しゃくりあげながら、幼児みたいに泣きわめく。わたしの自己嫌悪だ、聞き取ってくれなくともよかったけれど、彼は小さく首を振った。
「そんなこと、ないよ。紫乃ちゃんがいてくれなかったら、俺はあの子の手を取ってた」
 そんなことないのはわたしのセリフだ。
 わたしはきっと、――「わたしじゃなくてもよかった」から。
 彼に花束を贈る誰か。彼の、家族の話を聞いてくれる誰か。学校で挨拶したり、漫画を勧めたり、一緒にお祭りを回るくらいの間柄。全部そうだ。わたしである必要はなかった。
 鬼化したわたしを助けることは、おそらく、彼でないと難しかった。
 でも、その逆はない。優しい彼になら、手を差し伸べる人はたくさんいる――
「……相良を庇って捕まったって、聞いた」
 ぎくりとした。
 今更ながら、わたしが初めから鏡くんの言うことを聞いていれば、誘拐なんてところまで事態が悪化する事も無かったんだ。気づくのが遅すぎた。
 怒られるだろうか。声が低いのが怖い。彼が本気で怒るところなんて、何だかんだ一回も見たことがなかったから。
 胃が縮む。身構えた。それでもなんだか反応がないまま、おずおずと身体が離れた。
「……謝らせてください。ごめん」
 向かい合った彼のほうが、叱られた子どもみたいな顔をしていた。
「危ない目にあって欲しくなかった。まずは紫乃ちゃんが逃げなきゃ駄目だって、自分の身を守ってって、伝えたかったの。本当は。でも、……」
「……でも?」
「……俺の大好きな人の為に怒ってくれたこと、嬉しいって、思っちゃったから。……言い訳もできないですごめんなさい」
「いやいやいや」
 彼がわたしの不幸を喜んだ訳じゃないことくらいわかる。わたしが鏡くんを助けて、そのまま華麗に逃げ切れたらいちばん良かったんだ。無理だけど。
 また同じ状況に立たされて、同じように出来るかは分からない。だからこれも偶然だ。正直もう、なに喋ったかも覚えてないから。
「……そっか、」
 彼がわたしの手に触れた。
 彼の手は、一回りくらい小さくなった。か細く、痩せた。
「……紫乃ちゃんのことが怖くないのは、あなたの愛情が、俺の大切なものを、同じように大事にしてくれるからだ」
 そんなの、なんにも特別なことじゃない。
 彼がそんな事を言い出すってことは――つまり、彼を不当に踏み躙った輩は「そうじゃなかった」。
 悔しかった。心無い輩に、彼が深く傷付けられたことが悲しかった。
「大丈夫だよ。カザミン先輩も、氷崎先輩も……悪魔はわかんねけど。普通のこと、普通に大事にできる人だよ」
 カザミン先輩もわたしに劣らず物騒なこと口走ってた(しかもわたしと違って戦闘スキルが有り余ってる)から、もし調子がよければ会ってあげて欲しい。たぶん、すごく喜んでくれる。
 彼はふにゃふにゃ笑った。「うん」と、なんだか幼い子みたいだ。

「ありがとう、紫乃ちゃん」
 彼のおでことわたしのおでこが、こつんと触れた。

 柔らかい黒髪がくすぐったい。伏せた瞳と長いまつ毛がすぐ近くにあって、見蕩れたい気持ちと恥ずかしさがせめぎ合う。
「死にたくないけど生きていいのか迷っていた俺に、生きてって言ってくれたこと。俺の大切な人を守ってくれたこと……お見舞いも。来てくれたのに、追い返してごめん」
 謙遜も卑屈も挟めない。まだかすかに震える声は、それでもやさしくわたしに響く。
「俺、やなとこばっかり見せてる気がする。相良がいないのは嫌だって、泣いて逃げ出そうとした。……そういう一番かっこ悪いときに、紫乃ちゃんは、傍にいてくれた」
「……かっこわるいのはおあいこだよ」今まさに、べちゃくそに泣いてる身としては。
「そうかな。だったら、もっと嬉しい」
 鼻がくっつきそうだ。心臓が爆発する。店長さんに動揺させられた時なんて比じゃない。
 緊張が一周回って、本当に綺麗な顔だなとしか感想が出ない。
「偶然だ、当たり前だ。自分じゃなくてもって言うけど、違うよ。他の人は関係ない。俺にそれをくれたのも……あの冬の日、空っぽになった俺を抱き締めてくれたのも。みんな、ぜんぶ、紫乃ちゃんだ。だから、……」
 彼はしばらく言葉に迷って、むむと唸って眉をひそめた。

「……どうか俺に、時間をくれませんか」
「?」
「今のままじゃだめだと思うから。情けないけど、心持ちの問題、です。……もう、すこしだって待たせたくない。頑張るから。そうしたら、」
 あなたに伝えたい言葉があります。
 金の瞳がわたしを射抜く。真剣な眼差しに鼓動が跳ねた。
「……だから今は、これだけ伝えさせて」
 幾ばくもせずにふにゃりとくずれて、見慣れた笑顔に戻ったから。見間違いかもしれないけれど――、

「例えこの縁が偶然でしかなくても。あの優しい花は、俺にとっての運命だったよ」
 涙に濡れた瞳が、こんなにも綺麗だ。

 本命の廃墟への突入から五分と経たず、冬部率いる編成部隊と合流した。
 双子は有無を言わさず戦線から外され、そこから先は北支部の領分として、犯人グループは速やかに制圧された。
 応急手当を終えるやいなや真っ先に駆け出す和泉の前に、冬部が立ち塞がる。無意識に背筋を伸ばした和泉も、これから何を言われるか想像はついていた。
「……俺はなんつった? あ? 病院で待ってろって言ったよな。……それが何でこんな所まで来てやがるてめぇら!!」
 誤魔化しようも言い訳もない。冬部ら部隊が現着するまでの道中で、二人がどれだけ暴れたかは既に把握されていた。
 和泉が身を縮め、相良は「おお」と興味津々に冬部を見上げる。
 射殺せそうな眼光で上から下まで検分し、唸るような声が問い掛ける。
「怪我ねぇのか」
「打撲と切り傷くらい、で……あとは、疲れただけ、です」
「相良の嬢ちゃんもか」
「はい。軽い負傷は、先ほど隊員の方に応急処置していただきました」
「……」

「もう、いいのか」

 和泉が顔を上げる。
 手を離す心配と、回復の予兆への歓迎。無理を諌めながらも、和泉が最悪の方向に落ちなかったことを安堵したい――渋滞した感情が、眉間に深い皺を刻んでいる。
「……はい。ご迷惑、お掛けしました」
 深深と頭を下げた。隣の鏡もそれに倣う。
 二人を見守る冬部に、隊服の男が紙切れを差出した。
「冬部。榛名ちゃんの場所、これ。確認頼む」
「分かった。すぐ行、――」
 和泉と目が合う。
 立ち去る男の襟を捕まえ、紫乃の周辺に敵影が無かったことを確かめてから。紙と役目を和泉に託す。
「説教は後だ。……そこまで動ける元気があんなら手加減しねぇぞ。覚悟しとけ」
 早く行けと、急かしていた。
 和泉が一瞬硬直してから、遅れて意図を汲む。穴でも開けそうな熱量で紙面を凝視し、見つけたビルは冬部と同じ、
「迷惑なんざいつでも掛けろ。助け求めてもらえた方が、ずっとありがてぇんだ」
 振り向く前に、分厚い掌が背を押した。

 駆け出した少年を見送る。
 和泉と鏡写しの「妹」も、冬部と並んで、兄の背中を見送っていた。
「相良の嬢ちゃんは、行かなくていいのか」
「はい」
「……紫乃が心配だったのは分かるけどよ。武器も持てて自衛できる俺らみたいのならまだしも、嬢ちゃんみたいな人間が狭間通りには来ちゃなんねぇよ。危ねぇぞ」
 建物内での待機の勧めを、鏡が丁重に辞退する。「貴方がたの目の届く範囲におりますので」と、冬部だけを隊員らの一団に押し込む。

 一人で夜空を見上げ、乾いた空気を吸い込んだ。
 凭れたコンクリートで、鏡の身体が冷えていく。元よりひとの真似事でしかない器物の体温は、駆動に際して発生した無機質な熱に過ぎない。
「本物の妹さんを餌にできたとしても、彼はもう、迷ってくれないわね」
 音もなく現れた佐倉に、鏡は驚かない。
 佐倉は隣で、同じく長身を壁に預けている。鏡が無言で首肯を返すと、媚めいた甘い声が、残念そうに間延びした。
「和泉くんの狂信をうまく引出して、不死に繋げたいって話。けっこう真面目なことだったのよ? 『新人さん』の死因に、自殺は少なくないもの」
「……紫乃の為だと言いたげですね」
「あら。そう言ったつもりよ」
 孤独に耐えかねて、死を選ぶかもしれない。
 持ち主を定めた器物を「主が死んでもいいのか」と揺さぶる。物腰柔らかに人質をとって、鏡の迷いを期待していた。
「紫乃の呪力は私が貰い受ける。人の身のまま死ぬのだから、貴方の脅しは無意味だ」
 一切の動揺を見せない言葉に、佐倉の肩が揺れた。
「……そんなことが出来るとでも?」
「私の使用契約に際して、既にパスは繋いでいます」
 呪具の稼働に必要な呪力を得るため繋いだ通り道。それさえあれば可能なはずだ。

 黙ったままの佐倉への問い掛けは、既に、鏡の中で確信を得ている。
「不死も機序は鬼化と同じ。呪力が蓄積した結果の変質に過ぎない。……力さえ掠め取れば『結果』が起こることもなくなる。違いますか」

 答えがないのが肯定だった。
 佐倉を見上げる。和泉と同じ目線から見ても背の高い部類だ。紅をさした唇から漏れる呻きが、普段の声より随分低いことを、敢えて指摘はしない。
「……ふざけないで。呪力が尽きたらそこまでの呪具ものが、不死者の問題に口を挟むどころか後継を潰すですって? 器物の分際でどこまで勝手なのかしら」
器物ものを庇って生命を張るような愚か者共は、些末な失態ですぐ死にますよ。もとから五分の賭けなのでしょう」
 不死者ばけものの事情など知ったことではない。勝手はお互い様だろうと、歯に衣着せぬ物言いを黙らせる圧で、鏡の呼吸が苦しくなる。
 佐倉の術だ。けれど、器物である鏡の顔色は変わらない。
 鏡本体は和泉が持っている。虚像にすぎない鏡を痛め付けたとて致命傷とはなり得ない――佐倉が吐き捨てる。
「……ほんっと可愛くないわ。ただで済むと思ってないでしょうね」
「可愛いじゃないですか。ほら、この顔」
「悪いけど和泉くんとは話が違うの。だいたいあなた、謙虚さってものが足りないわ」
「私は元より自信家です。燃費がよくて使い勝手も申し分ない、優れた呪具ですから」
 瞳を笑みに細める。美しい金色の内に、自己肯定と矜恃の光を閉じこめて、きらきらと宝石のように瞬いた。

「貴方に彼らは渡さない。諦めてくれ」
 季節はずれの桜の花弁は、夜風に攫われ空へと溶けた。

 足音がひとつ、ふたつ。階段を降りていく。
 闇に霞む人影は、女と男が一人ずつ。黒いスーツに身を包んだ女が、男の枷具の鎖を引く。転び掛けた体勢を整える足踏みと金属音。
 アイマスクとヘッドホン、口枷。白い衣服に身を包んだ罪人は、後ろ手を組んだまま、黒いベルトで腕を拘束されている。

 目隠しで視覚を封じる「変装」のまま、不自由なく周囲を知覚していた殺し屋の奇術は、未だ仕掛けがわかっていない。
 男を収容する牢は、組織本部の地下にある。
 万が一にも、組織の場所を把握されてはならない――油断を排した厳重な拘束を施し、細心の注意と警戒のもと、男の移送は行われた。
「長旅、御苦労」
 ヘッドホンを外し、到着を報せる。続いてアイマスクと口枷が外れた。
 薄い唇が、やっと自由に酸素を求める。白髪頭を軽く振る。少し伸びた前髪がばらけ、緑の瞳がゆるりとのぞいた。
 明かりのない闇で揺れた視線は、すぐに女をみとめ柔らかく笑う。
「こちらだ。無駄口は許可しない」
 彼女は動じず細道を進む。道幅が広がり、視界がすこしひらけた。

 月のない雨夜ほどの光量しかない。
 両脇に小部屋が並んでいる。出入口は鉄格子、あとは真白な壁――
「……きさん。あんときのヤツやな」
 白壁から声がした。

 鉄格子の隙間から窺える室内、その壁に、見上げる大きさの影が揺らぐ。
 人の造形には余分な、獣の耳と尾。
 鉄格子の前に寄ってきた無防備な気配を、右手の鋭い爪が指す。
「あの時、とは。どの?」
「とぼけたってムダや。顔なんぞひとっつも分からんかっても、臭いはばっちり覚えとる。間違うはずあらへんわ」
 女が空き室の施錠を外す。鉄格子を開け、男を招いた。
「貴様の房は此処だ。入れ」
「承知しまし「は――――あ!!? なに考えとんねやネエちゃん!! よりにもよってなんでおむかいや別んとこにせえ!!」
「警備上の理由だ」
「ここに先に居るんはワシやぞ! ご近所さんの意向は! 聞かんかい!」
「考慮に入らん、諦めろ」
 絶え間なく放られる抗議が、ぱかぱか小気味よく跳ね除け打ち返されている。それがあたかも長く共に過したが故の気安さにも見えて、新参の男はふっと笑みをこぼす。
「――忘れんなや、兄ちゃん」
 夫婦漫才に水をささず、房へ入り掛けた背中へと。鋭く研がれた牙がぎらつく。
「あんまり油断しとったら、その喉笛喰いちぎったるわ」

 綿菓子に似た笑い声は、薄暗い牢をやわく震わす。
 獣の威嚇とその脅威は認知している。しかしながら、男が怯む材料とはなり得ないだけ。
「へえ。それは怖い」
 バニラ色の髪が揺れた。