3-5

 彼女はいつも、一人でいる子の傍にいた。
 弱いもの虐めや仲間はずれ、嘘の類は大嫌い。可憐な見た目と裏腹に、男の子達に臆せず渡りあう強さもある。彼女を煙たがる悪餓鬼はいても、嫌悪する人間はいなかった。
 あの年頃には珍しく、特定の友達を作らなかった彼女だけれど。私は学年が違うから、想像でしかない上で――きっと彼女が一人でいるなら、男女問わずいろんな子が、自分たちの仲間に入れようとするだろう。そんな気がした。
 今となって思うに、彼女の精神は、彼女の同世代達よりも大人びていた。
 私自身、従姉妹のお姉さんというより、同年代の友達と話すような気持ちでいた。どこか浮いた彼女のことを遠目で眺めながら、面倒みのいい子、正義感の強い優しい子――なんて、ひとなみの評価をしていた。

 私がかどわかされそうになった時。真っ先に駆け付けてくれたのは、私よりも幼くちいさな彼女だった。

 華奢な彼女に覚えた安堵を何と言い表せばいいのか。
 人が本当に心細い時。胸を押し潰して声も出せない恐怖に立ち向かって、不安の雲を晴らしてくれる。震えて立てない誰かの為に手を差し伸べて、寄り添うことを迷わない。
 彼女は優しく、気丈だった。そのしなやかな強さは、うずくまる誰かを明るく照らす。
 彼女を目で追うようになった。きっと、その頃から惹かれていたんだろう。彼女のことを知りたいと思った。
「儀式」を知ったのは、それからすぐのことだった。

 ある時、鏡を見つめる彼女を見つけた。
 タンスの奥にしまい込んでいる――特別な服だからと普段は着ない――白いワンピースを身にまとって、全身鏡の前に立っていた。
 声を掛けるのをためわられた。私に気づいたらやめてしまう気がした。それほどの静粛さを肌で感じた。
 私は「儀式」を見届けたかった。
 いつも楽しそうに笑うくちびるは、一言だって喋らない。澄み切った湖面みたいに静かな表情。知らない大人のような愁いから目が離せなかった。
 鏡に手を触れて、そっと近付き、寄り添って――鏡の虚像をみつめていた。
 翳るひとみに惹かれた。
 愛おしむ熱っぽさと、寂しそうな視線。危うい脆さが、美しかった。
 瞳の先には誰かがいた。私の知らない誰かを探していた。和泉は――自分から欠け落ちた一部を探すみたいに、失くした穴を埋めたがって。狂おしいほどに欲していた。
 彼女がわからなくなった。謎めいた儚さを暴きたいと、子供心に昂った。
 天真爛漫な笑顔と、陰のある横顔。人に恵まれていながら、孤独に苛まれているあなた。少女相応の華やかさと、少年のような凛々しさが混じる、ぐらぐらと掴めない貴方に、どうしようもなく惹かれてしまった。
 私は彼女に囚われた。
 彼女と会うことも稀になって、じきに私は大人になった。他者との交わり方をいくつか覚えて、自分にそれなりの社会性を見出した。仕事のかたわら出会いを重ね、恋人と呼べる相手とも巡りあった。私の好意に偽りはない――神に誓って。
 だから、最後まで正直に口にしよう。
 女を抱いても男を抱いても、脳裏にはいつも和泉がいた。
 中央に就職して以来何年も会っていない。和泉は今年で16になる。きっと美しく成長したに違いない。おじさんもおばさんも、和泉の歌が大好きだ――私のように、中毒とまではいかないまでも――止める理由は見つからない。和泉が歌を辞める理由も同様に。
 彼女は歌っているときがいちばん美しい。
 私は、夜空で輝く星へと手を伸ばす、ちっぽけな人間だった。無慈悲にきらめきを増すばかりの音に恋い焦がれ、惹き込まれては、誰の手も届かない高みにある星に安堵する。
 この手に落ちてきて欲しいし、届かないままでもいて欲しい。
 彼女に抱く感情の名も知らないまま、私は「あれ」を見つけてしまった――

 心神喪失に陥った中央本部隊員のケアで見つけた、なんということもない日記。
 みみず字で殴り書かれた手記には、「歌」の毒と、美しい少年の金の瞳が描写されていた。みなが妄想だと気にもとめない言葉が、私をとらえて離さなかった。
 その美しい化物のかたちが、不思議と和泉に一致した。

 私は彼から全てを聞き取った。
 浅ましくも、彼女の歌を利用しようとしてしくじった、愚かで浅慮な彼らの目的。和泉を御すため作ろうとしていた手綱のこと。
――欲する半身の『贋作』を用意する計画。
 どうやら頓挫したらしいそれは、私にとっての天啓だった。

 和泉が、私をあの目に映してくれる。
……捕らえて、くれる?

 あまい、あまい囁きに身を委ねてしまえば、躊躇うことはひとつとなかった。
 私が彼女に抱く感情はどうにも拗れ切っていて、この蜜を拒絶したがる私も居たような気がするけれど――甘美な未来を想像するほど薄れてしまって、あった事すら忘れていった。
 和泉の心を絡め取れるのなら、私は「わたし」でなくていい。

 彼女の歌は、多くの人間の心を奪い去った。彼女の聖域を犯した人間はすべて、誰もに平等に、容赦なく、分け隔てなく。――私は歓喜した。
 その激しさを歓迎し、渇望した。

 その毒に私を浸して欲しい。
 この指先まで、骨の髄まで犯してほしい。貴方なしではいられない体にしてほしい。古いわたしをどろどろに溶かして、あたらしい私を造形ってほしい。貴方の声で。音で。脳髄に染み込む甘い毒で、私の全てを狂わせてほしい。
 貴方の望むかたちになる。
 あなたの欲しい「あのこ」になるから、私の全てを奪ってほしい。あなたの隅々まで触れさせてほしい。あのさびしげな瞳に囚われたかった。私から離れられなくなってほしかった。
「そろそろ、逃げようなんて気も無くなったろ? 外して上げる」
 拘束は、和泉の身体を傷つけないため。本意ではない。苦渋の決断だ。もう暴れそうにないのなら、外してあげてもいい。
『俺、女の子じゃないんです。ごめんなさい』
 念願の再会を果たした彼女は、良くない呪いに取り憑かれていた。
 彼女を正気に戻さねばならない。
 あの頃と同じに――あの頃よりも。彼女をこの世の何より美しく仕立てよう。私にならそれができる。彼女の一番の理解者たり得る、私にこそ。
「私があなたの唯一になるよ」
 もどかしい――早く。その毒で満たしてくれ。私を支配してくれ。感情のままに私を虚ろにして、あなたのものだけ注いでくれ。傍若無人に私を甚振いたぶる、化物のあなた。無慈悲なあなた――知らないあなたをこの目で見たい。
 あなたはどういう顔をするのだろう。
 天使のように微笑んでいるのか、冷徹で言葉の通じない魔物の顔をしているのか。
 胸郭を開き、脈打つ心臓を暴くようで――背筋が粟立つほど興奮する。
「私はあなたのものになるから、あなたは私のものになって。そういう人が欲しかったんでしょう」
 支配と隷属は相互関係だ。
 彼女は私を組み敷き、すべて暴いてしまうだろう。暴力的に蹂躙して、私を作り替える――その毒牙にかかる過程で、私は彼の全てを知る。彼女すら自覚しない無意識までもを、仔細にわたって私に晒す。
 彼女は私の主人であり、私の可愛いお人形。
 相手を支配し、束縛しながら、互いの存在に隷属する。

『ああ、愚かだな。何度僕を組み敷いたところで、心までは奪えんぞ。よほど物わかりが悪いとみえる』

 彼女がゆるりと顔を上げた。
 慈愛、歓喜、激情、依存――私が望んだものは、なにひとつ。
 私など、目に映さない彼女がそこにいた。私へ向けられた言葉ではない。うわ言で、独り言。
「おれ、の、一対――は……さがら、だけ――」
 揺るぎない拒絶だった。

『僕の相棒はあいつだけだ。この心を許すのも、な』


「――、…………ああ、そう。――貴方はやっぱりそう言うのか」
 じりじりと、痛む。
 吐き気が込み上げる。焼け付く痛みと胃液の酸味。脂汗が背中を冷やすのに、顔は不思議と火照っていた。
 はやく――はやくはやくはやく。あなたの音を教えてくれ。原型を留めないほど刻みつけて、私をあなたのものにしてくれ。
 いい加減に焦らされ過ぎて、気がおかしくなりそうだ。
 あなたが私を蹂躙してくれないのなら、順番を逆さまにしよう。

「なあ、和泉。――私の子種を孕んでくれよ」
 私があなたを踏み躙るところから始めよう。


 部屋に小さな風が吹いた。
 彼女一色に完結した空間の不純物。蜜月に割り込む無粋が許しがたい――振り向いた鼻先をかすめる気配。
 くらくらと香り立つ禍々しさが、目に見える様だった。

 神へと祈るいとまもない。
 夜と融けた魔物が、暗闇の中に立っていた。