3-2

 神さまに会ったことがある。
 つい先日のことだった。普段、過去の追憶と回顧で終わることの多い夢は、その日はどこか、造花のように冷えていた。
 自分という意識があり、夢という自覚がある。思い通りに動くことが出来る。
 ぼやけた輪郭の街角で、無人の景色を見つめる。奇妙な明晰夢のただ中にいた。
「こんにちは。夢で会うのは初めましてね、和泉くん」
 現れたそのひとは、不思議と表情が見えなかった。
 頭があり、胴と四肢が揃っているのに、顔だけは認識できない。昔に面識のあった誰かにも、今まで出会ったことがないほど美しいものにも見えた。
 それは女神を名乗った。
「幼い貴方の記憶を封じていたのは、わたしなの――」


 窓も、鏡も無かった。
 馴染みの生活リズムが時計代わりになったのは初めだけ。日の出も時刻も一切が分からない暮らしで、時間感覚はすぐに見失った。
 暗さに慣れれば不自由しない程度、部屋は常に薄暗い。
 かたかたと換気扇の回る音がする。けれど何処かは解らない。
「おはよう、和泉」
 四肢に繋がれた枷と鎖は、換気扇の所在を探せるほどの長さがなかった。
 何度目か数えてもいない朝は、薄暗い部屋の隅に置かれたベッドの上。
 変わり映えしない目覚ましの言葉は、変わり映えしない日課が始まるしるし。
「先祖返りだってこと、どうして隠してたの。もっと早く知っていれば……いや、私は一般人だけどね? ……これでも一応、中央対策本部の研究職だとね。耳に入ってしまうこともあるという話で」
 彼女は朝食をテーブルに置き、ワンプレートにまとめた昼食と夕食をそれぞれ冷蔵庫に仕舞って、三度の食事を指示する。食事内容は厳密に決められていて、自由に飲めるのは水だけ。
 一日の注意事項を伝えられながら、注射をされて、身体を拭かれる。
 大人しく、黙ってさえいれば、痛いことはされない――
「……っ、!」
 触れ方が変わる――鳥肌が立つ。
 拭く意図ではない。触れて、蹂躙じゅうりんする意図だった。拷問の始まりは肌で解る。触れられた瞬間に寒気が走る。
「初めて」をされた時から感じ取っていた。
 こそばゆい感覚が虫のように肌を這う。熱の痕が残る。刻印のように消えない。身体が勝手に跳ねて、逃げる。身を捩って暴れる。
 自分でも抑えがきかなかった。触れられた瞬間、反射で拒絶してしまう。
 逃げられやしない。手枷も鎖も緩まないと解っているのに。がちゃがちゃと耳障りな金属音ばかりを響かせる。
 抵抗する度、彼女の笑顔は深くなっているように見えた。
 訳がわからなかった。涙で目の前が歪む。声が出ないよう唇を噛む。
――きっと。さっきよりもっと、嬉しそうにしているんだろう。
『前世というのは、呪いだよ。生者が囚われるべきものじゃあない。……自分の記憶との齟齬そごに苦しんで、ずっと、無理をして笑っていたんだろう? 気づけなくてごめん。大丈夫。君にかかった呪いは、私が取り除いてあげる』
――触られたくない。逃げたい。嫌だ。情けない。恥ずかしい。泣きたくない。見たくないし聞きたくない。喜ばせるような反応なんか、ひとつも返したくないのに。
 喜ぶ意味がわからない。理解できない。
『君は、女の子であるべきだ』
「君はほんとうに可愛いね。和泉」
 本当に、気持ち悪い。


 俺が思い出したこと。相良と俺は、きちんと双子だったこと。
 同じ血を分けた。同じ日に生を受けて、両親の顔も知らないまま一揃えで捨てられた。ずいぶん山奥の施設、身寄りのない子どもが集められたそこに、俺達も混ざっていた。
 俺の隣にはずっと、俺と同じ顔をした女の子がいた。
 はじめ、誰の隣にもいると思っていた「自分のもう半分」は、ほかのどの子の隣にもいなかった。皆はひとりで、俺はふたり。
 ふたりでひとりが当たり前だった。
 何の疑問も抱かなかった。皆が皆であるみたいに、俺は「そういうもの」だったから。
 この子のことを――俺の半分を、相良を。絶対に離しちゃならないって。俺は、誰に教わらなくても知っていた。
 
「相良が望んだ……って、そんなはずない! なんで相良が、俺の記憶を消してほしいなんてこと!」
「……教えてあげたいけど、教えてあげられない。妹さんは、……」

 十年前。鬼化した施設の男の子が暴走した虐殺事件。
 鬼の腕が、相良のお腹を刺し貫くその間際、「俺」は蘇った。

――閃いた、鮮やかな「前世」の記憶。
 刻々と生気が抜けていく、魅入られそうなほどに綺麗な、相良じぶんの死体。
 真っ白な耳鳴りの音、甘い花と鉄の匂い。噛み締めた唇の血の味。頭の内側なかみを塗り潰す、白っぽく鈍い痺れ。出鱈目でぐちゃぐちゃな感覚が、一瞬で、自分の中身を掻き乱した。

 俺は。
 妹を――じぶんを、護らなきゃ。

 立派な理由なんて無かった。
 呼吸と同じくらい当たり前のこと。自分の生存のための防衛本能。
『大丈夫。今度こそ俺、相良のこと、守れるよ』
『だから、どうか――』
「妹さんが願ったのは、死の淵でのことだった。理由は彼女にしか分からない。……鬼を手に掛けた記憶を、貴方に残したくはないって」
――最期に見るなら、笑顔がよかったなあ、なんて。

 孤児を集めた施設で起こった、凄惨せいさんな事件の顛末てんまつ
 生き残ってしまったのは俺ひとりで、犯人を殺したのも俺だった。死も覚悟して刃物を突き立てたのに、結局のところ死に損なって。
 いちばん大切な人は救えずじまい。
 俺がずっと知りたかった真実は、それだけ。
「鬼を殺した記憶は、貴方の人生に影を落とす。妹さんの願いの動機は、それで充分だったんじゃないかしら」

 ごめんね。相良は俺の幸せを望んでくれたのに。
 でも俺は、覚えていたかったよ。どんなにつらい終わり方でも、相良と過ごした大事な記憶を忘れたくなかった。その道が行き着く先が、明るいものでなくたっていい。
 それは「俺」が選んだことだ。
 相良を守りたかったから、俺は彼を殺した。初めて命を奪った恐怖より、相良を傷つけたものを、もっと傷つけそうなものを排除できた安心の方が大きかった。
「……なのに、なんでいなくなるの……相良のばか、」
 俺の将来なんてものより――俺は、生きているあなたと一緒にいたかったよ。
 相良じゃなくて、俺が女神さまに逢えてたらよかった。そうすれば、相良を助けてくださいって言えたのに。相良もそれを、願ってくれたらよかったのに。
「……妹さんは、兄である貴方の幸せを一心に願っていた。貴方を孤独にしたかったわけでも、不安にさせたかったわけでもない。それだけは誤解なく伝えさせて。それが、妹さんの願いを聞き届けたわたしの義務」
 泣きじゃくる俺を、女神さまが抱き締める。
 陽だまりみたいに優しい声が耳に残る。
「妹さんは、過去を受け入れて前に進む貴方を応援してくれていると思う。あなたが望んだ夢を見つけて、憧れを叶えることを、一番に喜んでくれると思うわ。
 私も、貴方のことを見守ってる。死者の繋いだ縁だけど、私も貴方のこと、応援していたいと思ったから」
 細い絹糸の声が絡みついた。寄せては返すさざなみのように、暗示の言葉を植え付ける。
――俺の憧れを、叶える。

 北に残って、目指したいみんなの背を追いかけたい。誰かを守れるくらい強くなりたい。冬部さんみたいな、覚悟のある、格好いい大人になりたい。
 相良にいつでも胸を張れるお兄ちゃんを目指す――

「高校と北支部、連絡入れておいたよ。ちょうど三年生だし、春から中央の大学に通うのもいいと思うんだけど、どうだろう?」
 彼女の笑顔は、和泉からしばらくの呼吸を奪った。
「……え、」
「しばらく休んでるから、心配されてるかなと思って。でも、もう北に戻る必要はなくなったと思う」
 心臓が嫌な音を打つ。何を、どこまで奪われたのか。問い質したい気持ちと、はっきりさせたくない恐怖がせめぎ合う。
 学校を辞めさせられたのか。
 北支部は除隊だろうか。
 住んでいた部屋も、引き払われてしまっただろうか。
 北の居場所を全て奪われていたら、どこに戻ればいい?
「ただ、北支部はなあ。……隊長である冬部の許可が要る。彼の捺印がされない限り、辞めるのは難しい」
――冬部さんなら、気付いてくれるかもしれない。
 瞳に星が灯るのを、従姉は察知している。
 掃除の手を止め、和泉が拘束されたベッドに近づく。逃げる身体との距離を詰め、絵本でも読み聞かせる柔らかな声で逃げ場を断つ。
「各支部も中央も相互不可侵みたいなものだからね。領域内は各支部の管轄下、他所の支部は文字どおり『余所者』。……北は中央ここには手出しできない。助けを期待するのは、和泉が悲しくなるだけじゃないかと思うんだけれど」
 ベッドのスプリングが軋む。鎖の音が響いた。
 背けた顔を両手で包まれる。
「彼だって、組織の人間だ。それは分かっている?」
「……冬部さんなら、助けに来てくれる」
「ふうん、随分信頼されているみたいだね。……嫌いだなあ、そういうの」
 笑みが威圧を含んで歪む。和泉の呼吸が詰まった。
 部屋の暗がりが迫ってくる錯覚がする。

「二年前、人喰い事件。冬部は君を生贄にする作戦を呑んだじゃないか」

 一瞬だけ息を忘れた。
 口を、開く――だって。それは。
「……そんな男の隊に自ら志願したと聞いたから、私はとても驚いたんだ。自分を一度見限った人間に、どうしてまた、命を預けようという気になれる?」
「違う! ……っ冬部さんは、俺を助ける方法を探してくれてた!」
 すくみそうになる。彼女の機嫌が目に見えて悪くなるのがわかった。
 それでも、引きつれた喉から声を絞り出した。譲りたくなかった。
「冬部さんは優しいんです。嘘をついたままのずるい子どもが助けを求めた手を、不誠実をされてるって解っていても、迷わずに取ってくれた。命がけで戦ってくれた。……ぎりぎりまで、俺の命を救える方法がないか考えてくれた。だから俺は、!」

「それで?」

――たった一声で萎縮する自分は、ひどく弱弱しいものになってしまったと思った。

 大事な人を侮辱されて引き下がったことが、信じられなかった。
 自分がそんな人間になってしまったと認めたくなかった。数え切れない恩のある相手に不義理しか返せないのかと、焦りと自己嫌悪で頭が埋め尽くされる。
「それでその男は、見事、お伽噺の王子のごとく。君というお姫様を救えたのかい?」
『もう少し、考えてみてもいいんじゃねえのか?』
 正隊員になりたいという希望に、渋い顔をしていた。
 学生隊員のまま辞める意思があると聞けば、頷くかもわからない。
 涙が出そうな想像ばかりに傾く。目の奥が熱くなる。鏡が無いから分からないだけで、ここにいる間、ずっと泣き腫らした顔でいてばかりな気がした。
「でも、一理あるか。冬部が金で雇った狭間通りの破落戸ごろつきで、人喰鬼が退けられたのは事実……それ以上余計なことさえしてくれていなければ、私だって素直に感謝だけ出来ていたのだけど。……だからね、和泉」
 透明な染みが落ちるシーツから、目を合わせ「させられる」。
 彼女しか、見えなくなる。
「『俺』、じゃない。……『私』でしょ?」
 一瞬、何を言われたか分からなかった。

「え、なに、……お、れ」
「違う」
 声色が失せる。恐怖で背が凍る。
 少しして――嘘のように柔くほころんだ声が、またひとつ、枷を増やす。
「わ・た・し。だろ? ……さ、言ってごらん。駄目だよ和泉。その一人称は『間違い』だ。次は許してあげない」
 和泉の唇が震える。
 息苦しそうに何度か開く口は、おかで息絶える寸前の魚に似ていた。
「……わ、たし、」
「うん、お利口さん」

 不安になることが増えていた。
 気分の浮き沈みが激しくなった。突然意味も無く大声をあげたくなる。ベッドや壁をめちゃくちゃに殴りだして、手が痛くなってもやめられない。何の予兆もなく涙が溢れて止まらなくなる。食事を何も受け付けなくなる時期がある。
 突発的に、死を選ぼうと考える。舌を噛みきれないか試したし、手枷の鎖を首に巻いたら死ねるのか考えた。身体に痣を作ったせいでひどく怒られて、それからは、恐怖で動けなくなったまま。
 想像する時間が増えた。北にはもうどこにも、自分の居場所は無い。冬部もとっくに、自分を辞めさせる書類に捺印してしまっただろう。学校には戻れない。きっと部屋も引き払われている。
 この場所からは、北にも、警察にも、声なんて届かない。
 異変は全て誤魔化されてしまっている。誰にも気付いてもらえない。助けも来ない。
 どれも泣きそうになる空想ばかりで、気分は日増しに塞いでいった。どこにも行けないと思った。そうとしか思えなかった。
 逃げようと考えることなんて、とっくにやめた。

「君は、……ほんとうに、綺麗だね。和泉」
――この人、どんなひとだったっけ。
 顔が見えなくなった。女神さまの出てきた夢に似ていた。顔の部分だけが塗りつぶされたみたいに認識できない。
 夢の中と違うのは、記憶の中のその人も同じように、もう何だったかわからなくなってしまったこと。
「おばさんの家と縁があったのは、君を守る為だったんだろうな。だからね、いくら嫌がられても、和泉を美しく保つのは私の義務なんだ。……ああ、そっか。くすぐったがりだものね……っふふ、ごめん。反応が可愛くて、わざとそうなってたかも」
 何も聞きたくなかった。
 かけられる言葉を理解するのはやめた。本当は耳にも入れたくない。
 触れられるのが苦痛だった。触れられたくないところまで、自分でも触れたことのないところまで撫で回されるから。
 嫌でも漏れる声に、満足げな顔をする。その度、自分の声が大嫌いになりそうだった。
 か細くて、弱くて、震えている――女の子みたいな、声。
 そのうち、声が掠れて出づらくなった。少しだけ気が楽になったけど、日課は変わらなかった。声にならない声が出て、涙が溢れる向こうに、輪郭の歪んだ笑顔を幻視する。
 唇を噛む癖ができてからは、綺麗なハンカチを噛まされるようになった。

 食事を残すことが増えた。点滴を繋がれた。
 注射の本数が増えた。知っているものの回数と、知らない注射が一回、それぞれ。
「新しい注射? 栄養剤だよ。君が食事を摂ってくれなくなったから」
「……うそ」
「……あれ、鋭いね? ああ、……そういえばそうか。和泉は、嘘には敏感だものね」
 順に注射を打ちながら、あの人の声が弾む。
「ずいぶん昔だけど、覚えてるよ。夏祭りの夜、怪しい大人に拐かされそうになっていた私を、和泉が真っ先に見つけてくれた……町内会の大人だって言い張る不審者に『嘘はやめてください』って、助けてくれた。
 それほど親しくなかった私のために、和泉は、 大人に立ち向かってくれた。
 ……誰にでも分け隔てなく優しくて、気丈で、汚い嘘や偽りなんか一切通じない。穢れひとつない純白が、誰より似合う女の子。……そんなの。天使みたいだって思ったよ」
 ひらひらと、目の前を手のひらが動いた。
「ぼんやりしてるね、可愛い。さっきのもうわごとなのかな……それでも嘘はわかるんだ。不思議だな」

 やっと形を持ち始めていたものを、あの人はやさしくすくいあげた。
 ひとつずつ丹念に、丁寧に触れ――なじってなぶって甚振いたぶってけがしてしいたげて。
 優しい指先の限りで、ぷちり、ぷちりと、ひとつ余さず「俺」を潰す。俺が思っていたよりもずっと、しゃぼん玉の虹色の薄膜よりずっと、ずっと――脆かった。儚かった。
「俺」と呼べそうなものだって、まだほとんど、無いのに。

 どうして、あんなに愛おしげな声を吐きながら、そんなことが出来るんだろう。
 わけのわからない感情それの中味を、俺は、理解できない。

 許容できない感情があることを、初めて知った。
 受け入れるには、俺が壊れるしかない。

 つまりそれは、奏者としての欠陥だ。
 母さんのような歌姫にはとても届かない。数多の感情を美味しそうに飲み干して、全てを御しては悪戯っぽく笑ってみせる――あの魔法には――敵わない。
 数えきれないほどの人に寄り添って、その手を引きずりこむ。魅了して誘う。連れていく。一夜の舞台にせもの記憶ほんものに刻み込む、残酷な極彩色の魔法。
 解っていたことだった。俺ひとりじゃ、不完全だ。
「……さがら、……」
 俺の半身。俺の一対。世界で一番だいすきなひと。
 相良だけが俺を救ってくれた。「私」じゃなくて「俺」を、本当の心の形を理解してくれた。側にいて、生きてていいんだって肯定してくれた。
 相良さえいてくれるなら満ち足りてる。俺は俺でいられる。生きていける。

 あいたい。
 だいすき。
――ごめんね。


 たすけて。