ナツとの邂逅(冬部、棗)

 じっとりとかいた汗が、まったくもって乾かない。
 茹だるような暑さだった。身体を巡る血液がぬるま湯に入れ替えられたみたいだ。同じように夏にあてられた名前も知らない誰かの汗が、滲んで、漂って――この一帯に熱気としてまとわりついているのでは。
 愉快とは言えない思いつきだったが、幸いにも。暑さにやられた頭には、リアルな想像を膨らます余力は残っていなかった。

 重く湿った、呼吸のしづらい夏の空気。
 少年は、濃い影の落ちる屋内から、ささやかな緑が茂る狭い庭先を眺めている。窓も網戸も全開だけれど風は無い。彼の手にある団扇だけが、僅かばかりの涼だった。
 仰いだ空の鮮やかな色彩が「みずいろ」の絵の具だけを幾重にも塗りこめたそれに近い。

 まあ、こんだけ暑けりゃ手抜きもしてぇよな。

 夏休みの思い出を題材とした宿題。画用紙は未だに白紙のままだ。
 彼は眉間に皺を寄せながら、安っぽい空色を視界から追い立てる――


 一人の子どもが柵を乗り越えて、彼の自宅の敷地に堂々と不法侵入していた。


 眼の前で行われた行為が――というよりは、その子どもの態度が。あまりに平然としすぎていて、彼は言葉を失った。
 そうこうするうち子どもは身軽に着地して、いつの間にやら彼の正面に立っている。

 地毛の金髪を見たのは初めてだった。
 柔らかそうな髪が真夏の陽光を強く弾いて、ちかちか光る。透き通る金糸が白銀と錯覚しそうなほど眩しい。

「ねぇ、お前」

 都会というのは子どもの造型つくりまで違うのか――静かな田舎育ちの彼は、そんな感慨を得ていた。なるほど街の人間だ、テレビの向こう側の人間と同じ形をしている。
 田舎者心にも整っている容姿だとわかる彼女、または彼に対し。少年の警戒心は圧倒的な驚きにのまれ、まったく所在が分からなくなっていた。

「今日は素振りしないの。いっつもやってんじゃん、ここで」
「今日は『ねっちゅうしょう』になるから、やめろって言われてる。だから、休みだ」
「熱中症? お前、それ意味分かって言ってる?」
「……多分」

 素振りは早朝に済ませてしまったため、今はもう、やることがなくなってしまった。
 暑くなったら窓を締めて冷房を動かすようにと。両親は彼にそう言って仕事に出かけた。それが彼の身を案じる発言だと、テレビを見て何となく知っている。

 快適な空調設備も、整頓の行き届いた小さな戸建ても、駅からこの家に着くまでの道のりで見た灰色の街も。ほんの少し、彼にとっては落ち着かないだけ。

「ろくに風も入らない窓開けて、ジジイみたいに庭眺めて? お前の頭とっくに茹で上がってんじゃないの」
「ケンカ売りに来やがったのかテメェ」

 彼はその金髪に対し、拳を握ることを一瞬たりと躊躇わなかった。
 直射日光で焼け爛れたサンダルをつっかけて庭に出ると、夏の陽射しが目を眩ませる。咄嗟にうつむくと――侵入者が、彼にとって非常に馴染みのあるものを携えていると気付いた。

「僕、お前と試合しようと思ってわざわざ来てやったんだけど」

 そっちが木刀なら、僕も仕方ないから合わせてやろうと思って。
 そう言った侵入者は「街の人間」には似つかわしくない無骨な木刀の切っ先を、ぴたりと彼に定めた。取り繕うつもりもなさそうな、不機嫌がこれ見よがしに滲み出る碧眼が彼を射抜く。

 彼は、かけられた言葉を理解するのに時間を要した。
 侵入者の手にあるのは竹刀を握る胼胝たこのそれであること。木刀が使い込まれたものであることなどを、ぼんやりと推測する。

 そして――答えはいっさい迷わない。

「テメェどこのだれで親はどこ行きやがった」
「一人。何お前、まだお母さんに連れられなきゃお外に出られないわけ?」
「その口のききかたをしつけた親のかおが見てみてぇって話だ。いますぐぶんなぐられてぇのか」