ふゆのおわりに

 山奥の集落が深い降雪で閉ざされる、長い冬。
 ちょうど、その年で最も寒さが厳しい日だった。

 除雪を一区切りした男が、うずたかい雪山にスコップを突き刺す。
 防寒着の襟をゆるめ、首巻きのタオルで流れる汗を拭き取りついでに視線を巡らせば――一面の銀世界でも目を引くようにと誂えた、小児向けの真っ赤な防寒着が見えた。
 うつむいて帰ってきた少年を、男がしゃがんで出迎える。
「おつかれさん。学校たのしかったか?」
 返事は無かった。
 目も合わせず玄関に向かう猫背を追いかけながら、男も異変を察する。

 少年の灰色の髪は雪まじりに濡れていて、毛糸の手袋が片方ない。
 暖かい屋内で荷物をあらためれば、通学カバンの中まで雪が入ってびしょ濡れだった。
 薪ストーブの前で霜焼けた手をさすりながら尋ねれば、少年はぽつりと、学校で喧嘩したことを白状した。
「……おれは可哀想じゃない」
 こぼれた台詞に、男が言葉を詰まらせる。

「捨てられてなんかない」
 自分に言い聞かせるための言葉だった。
 年齢不相応に押し殺した感情が、――泣いて暴れてしまいたいほどの激情を押さえつけた理性と、聡明な少年の気質が、男にはひどく苦しかった。
 彼を大人びさせてしまったのは。同年代の子供達よりも早く大人にならざるを得なかった責任の所在は、明白だ。
「……オレが不甲斐ないせいで、ごめんなぁ」
 芯まで冷え切った、震える体を抱きしめる。
 ぱちぱち跳ねる火の音に、小さな嗚咽が混ざり始めた。

 ◾️

 白く清潔な病棟を、猪じみた足音が駆け抜ける。
 看護師に凄まれ、リハビリ中に転んでいた見知らぬ子どもを助け起こし。結果的に徒歩と大差ない所要時間で目的地にたどり着いた冬部は、病室のドアを勢いよく開け放った。
「じいさん!」
 四人部屋の窓際。
 向かいのベッドの患者と歓談する男が、冬部をみとめて目を見張る。
「あ? さくか? ……ひっでえツラだな、誰か死んだか?」
 頭に包帯をまき、腕を吊りながらもケロリとしていた。
「なぁんだ、護城ごじょうさんとこのか」
「かわいい孫だよ。朔ってんだ」
「へ〜〜似てんなあ。後妻との息子だって言われりゃ信じた」
「バカ言えオレは女房一筋だよ」
 がははと笑う祖父に拍子抜けして、冬部がその場に座り込む。
 重体危篤との報せで張り詰めていた緊張は、一転して脱力感へと変わっていた。

 深夜、端末に届いた祖父の危篤の報に、冬部は着の身着のまま車を走らせ帰省した。
 使い切れないほど溜まった有給と、長期休暇が許される閑散期の幸運。そして手続きを代行してくれた同僚兼幼馴染の存在を、この時ほど有り難がったことはなかった。
「朔おめぇ、仕事はどうした。とっとと帰れ」
「こんな時まで意地張んな爺さん。死にかけたのは事実なんだから看病くらいさせろ。……とりあえず二週間は居るからな、長引くようならお袋と交代して」
「あーやめろやめろ。おおごとにするんじゃねぇ。すぐ退院できる」
「退院できたとして、利き腕折れててマトモに生活できるわけねぇだろ」
 幼少期から祖父に養育されていた冬部は、祖父の住む地域がどのような場所かをよく理解している――山奥かつ、住民は九割九分が高齢者。最寄りのスーパーまでは山を超えねばならず、地域住民の営むささやかな商店が補給線を一手に担う。
 入院可能な医療施設はひとつ。それも比較的街中まで車を走らせる必要があった。
「……爺さん、真面目な話だ。一人暮らしで命拾いしたのが奇跡なんだよ、見つけてもらってなきゃ今頃どうなってたか分かんねぇぞ」
 平時ならご近所付き合いで助けられるかもしれないが、あいにく今は冬。
 降りしきる雪に埋もれかけた祖父を見つけたのは、雪をかきわけ上機嫌に散歩していたご近所さんの飼い犬だった。それも派手な出血を嗅ぎつけた結果であって、もし気を失っていただけなら見過ごされて凍死していたかもしれない。
 冬部がいくら凄んでも、祖父はへらりと何処吹く風だ。
「そりゃ仕方ねぇなぁ。ここに暮らしてる時点で覚悟してる」
「爺さんが良くても俺たちが良くねぇんだ。親父もお袋もこれ知ったら飛んで来るぞ」
「嘘だな。死んで清々するくらいに思ってるだろ、あのバカ息子は」
 おどけて笑う祖父の声が、から元気に近いものだと知っている。

 自分の父親と祖父の確執の正体を、冬部は知らない。
 険悪とまでは言いがたい。互いに避けている、という印象が強いだけだ。幼心に不思議だった距離感について「父へ問いただせばいいのか」と思いつくより早く、両親は冬部の養育を祖父に任せた。
 成長して他者との関わりを増やし、ほとんど顔を合わせない父との距離感をはかりかねる頃には、肉親の不仲を無邪気に追求できる図太さは失われていた。
「とにかく。今回のことはオレとお前の秘密だ、朔。お前さんの両親に連絡するなら、おめぇごと病院から叩き出す」
「……ったく、……仕方ねえな、」
 ため息が漏れる。
 折れないだろうと悟ったのは、付き合いの長さゆえだ。
「……親父はともかく、お袋とはたまに会うんだろ。なんで隠したがる」
小夜さよさんは気立てが良いから、旦那の父親でも他人のフリ出来ねぇだろ。中央で立派な仕事してるんだから邪魔しちゃいけねぇ」
「そりゃ他人じゃねぇからだろ。お袋しょっちゅう爺さんの心配してるぞ」
「あのなぁ、……おめぇの母親でも、オレとは赤の他人だろ。まかり間違って縁もゆかりもねぇジジイなんか世話させることになったら気の毒どころの話じゃねぇよ」
 人間嫌いな性格ではないのは知っている。地域交流や行事を好み、ご近所とも仲がいい。
 都会で働く息子夫婦の生活圏内で事件や天災があると、ひどく落ち着かない様子になる。たいてい、母にぶっきらぼうな安否確認をしていた――冬部自身の経験としても、愛情深く育ててもらった自覚がある。
 嫌っていないはずの家族を遠ざける祖父の態度が、どこか腹立たしく、寂しい。
「お孫さんですか。お祖父様の主治医からお話があるそうで」
 看護師に呼ばれ、冬部が席を立つ。
 身じろいだはずみに「いてて」と唸る祖父に、冬部は一言、尋ねた。
「誰にやられた」
 答えは無かった。
 横殴りに吹雪いた外の景色を、凪いだ瞳に映している。
「大した傷じゃねぇからおめぇも騒ぐな。いいな」

 ◾️

 祖父はひとかどの武を修めている――と、冬部は思っている。
 自分は生まれも育ちも此処だ。若さゆえに血気盛んだっただけで、ごろつき崩れの行儀の悪い剣だ、などと本人は言うが。中央の武系流派の人間が親しげに祖父を訪ねてくる時点でその虚構は破綻していた。孫に追及の意思がなかっただけで、祖父の嘘は大雑把なうえ、細部に頓着ない気質も祟ってガバガバだった。
 ただし、腕は本物だった。冬部に武術の手ほどきをしたのは祖父だ。
 師の力量が趣味の範疇から逸脱していることは、教わる側から理解できた。現役の戦闘職種かつ、若さと体力で勝る現在の冬部が立ち会っても油断できない相手だろうとも。
『一命を取り留めたのは奇跡です。安静にと、ご家族からも言い聞かせてください』
『創部から呪力が検出されました。警察ではなく異類対策部事案になっているはずです』
 武道経験者が一方的になぶられる脅威度の鬼化個体。
 仮に野放しにされているなら、今度こそ命が無いかもしれない。
「連絡してた冬部、だが……」
 一帯をカバーする異類対策支部の所在地は、隣の市の役所にあった。
 さびれた別棟に隔離された施設には、人の気配がまるでない。無人の受付に何度か声をかけ、やっと遠くから「はいはい」と壮年の事務員がやってきた。
「ごめんなさいねえ、ちょうど立て込んでて……冬部さん、お忙しくない? 隊長さんが戻ってきたらご連絡さしあげるよう言っておきますよ」
「いや、それはいいんだが……よければ捜査資料だけでも見せてもらえねえか? 申請に要る書類は揃えたし、必要なら北支部の隊員証も」
「あらご丁寧に。お預かりします。やっぱり大きいところの職員さんはちゃんとしてるんですねえ」
 事務員が戸棚を開けて、ファイリングされた書類から該当のものを冬部へ手渡す。
 来客用ソファへと勧められるまま腰掛けながら、冬部の指が薄い書類をめくりはじめた。

――事件概要があまりに少なく、記述が足りない。
 書類仕事に疎い冬部の目からも不備がわかる。現場周辺の調査をしていない。目撃者、発見者、周辺住民への聞き込み――すべて白紙だ。
 被害者への聞き取り調書すら無いのは意味がわからない。
 これが地方支部のやり方かと混乱している冬部に、暖かい湯呑みが差し出される。
 お茶うけの煎餅などを差し出しながら、事務員が眉を下げていた。
「里帰りしてた男の子が行方不明らしくてねえ。警察さんに駆り出されてるんですよ」
「……、……あんだって?」
「ほらうちって、大きな事件や討伐もないのに訓練ばっかり厳しいでしょう? 税金の無駄だ持ち腐れだって言われて、よく応援頼まれちゃうの」
 つまり、祖父の件は誰も動いていない。どころか放置されている。
 まさかと思った嫌な予感は、数時間後に戻ってきた地方支部隊員――その隊長によって肯定された。
「この件は何も……誰ひとり動かねぇし動く気もねえ。そういうことか?」
「……お言葉ですが、ここは北支部本部とは環境も人員も異なります」
 濃い疲労を滲ませた隊長が、うんざりしたように吐き捨てる。
「鬼一体、……たかがとは言えませんが、されど一体、なんです。一帯を山狩りして捜索できる人員も余裕も、装備も、経験ある隊員もいません。探したところで意味もない」
「意味がねえってことはないだろ。鬼を放っておけってか」
「ないんですよ。必死に探しても、討伐に移行することなんて年に一回あるかどうか。熊と間違われて撃たれてたり、山でのたれ死んでたり、川や海に浮かんでたり……だから、地方支部の鬼狩りなんて保健所職員みたいなものです。鬼の死骸を見つけたら通報するところ。まして今、冬ですよ?」
 そのうち凍死して出てきますよと、隊長はこともなげに言い放った。
 冬部にも解らない話ではなかった。北支部本部の討伐が閑散期なのも同じ理屈だ。
 一般的に平熱の高い鬼は、極度の低温で活動が鈍る。弱っていれば凍死する。討伐せずとも鬼が死ぬ季節。それが冬だ。
「生きているかもわからない……見つけたところで殺すだけの鬼より、助かるかもしれない人間のほうを見つけてやりたいんです。まだ小学生ですよ。親御さんも浮かばれない」
 先の長さを思えば、子供の命が重いことも。理屈はわかる。
 一定の理解は示した上で――冬部は「絶対に一般人には言うな」と釘を刺した。
「老い先短いジジイだろうとな、俺にとっては家族の命だ。俺はまだしも一般人なら尚更、対策部頼るしかできねえってのに……他所の子ども優先するから誰も動かせませんなんて言うのか、あんたらは」
「……あんな辺鄙な雪山いくつも駆け回って消耗しろって? 都会の人に偉そうに指図される謂れはありませんけど」
「あのなあ……あんたら異類対策部だろ。人間相手は警察の仕事だ。やり甲斐あろうとなかろうと、あんたらが職務放棄したら誰がやるんだよ。……警察側が人員出せって無茶言うなら領分外だと突っぱねろ。テメエらの仕事はテメエらでやれって話じゃねえのか」
 苛立ち混じりに捲し立ててから、説教臭くなったと口をつぐむ。
 ともあれ、やることは決まった。閲覧書類を返却しついで事務員に確認する。
「探知機と武器の借用申請、できるか?」
「ごめんなさいねえ。うち、装備品は最低限しかなくって……訓練用の刀なら、」
「……貸してくれ」無いよりはマシだ。

 市民への周知のため、武装時は隊服着用の規則だ。
 積みっぱなしの着替えから予備の隊服を引っ張り出し、硬い革帯と訓練刀を積み込んでトランクを閉じた。

 ◾️

「さくちゃん!? あらまあ大きくなって」
「はあー、護城さんが若返ったかと思った。びっくりしちまったよ」
「覚えてねえなあ、すまねえ。じいちゃん元気そうか? いつ退院だ」
「白菜と、大根と……そうだ実家からミカンもらったの。食べきれないから持ってって」
「護城さんに、これ。お見舞いね。日頃のお礼だから気にしないで」

「なんだその荷物。……朔、おめえさん行商人にでもなったんか」
「全部じいさん宛だ。食えそうならミカン剥くけどよ、どうする」
 当初の予定は二週間。タイムリミットが近づきつつある。
 見舞いと看護、祖父の家の管理のかたわら続けている調査は、順調とは言いがたい。

 連日やまない降雪により、祖父の発見地点周辺の痕跡は雪に覆い隠された。
 狭い範囲に分けて雪を掘り返し、何日もかけて凶器や所持品の類を捜索したが収穫なし。
 幸運にも後日、短時間だけ借りられた機材により微弱な呪力反応を捉えたのも一瞬だった。祖父を襲った犯人との一致を照合できるほどの情報量を持たない反応は信頼性に乏しい――というのが北支部本部研究棟職員からの指摘であり、誤作動か環境由来かと懐疑的に捉えるべきだと諭された。
「慣れねえことしやがって。気い使うなって言ったろ」
「使ってねえよ、不便なの解ってるだけだ。素直に食え」
「なんだ、仕事で腕でも潰したか」
「……大したことじゃねえ」
「……そうかい、」
 近隣住民への聞き込み調査も、有力な情報は得られていない。
 成果は無いのに、善意の協力を申し出てくれる人達が多いから心苦しい。
「暇なら手ぇ貸してくれ。このへん片付けちまわねぇと」
「は? 何でだよ」
「退院するからに決まってんだろ」
「大人しく寝てろ。いま医者呼ぶ」
 結論として、退院判断は祖父の独断や妄想ではなかった。

 病院まで送り迎えできる身内冬部がいるなら通院加療も可、ということらしい。
 揉めに揉めたが本人の意志は固い。ベッドの空きを待っている患者がいると言われてしまえば、病院側に無理を通すこともできなかった。
 雪の轍や荒れた舗装の凹凸、急カーブの多い山道で、後部座席の怪我人に障らせないよう慎重にハンドルを切る。
「おい朔。さっさと走んねえと日い暮れちまうぞ」
「急かすな。荷物が転がる」
「惣菜だ何だって買い込むからだろ。帰りゃ作れんだから」
「腕折れてんだろ。俺は料理できねえからな」
「なんだぁお前さん、まだ料理ダメか」
「……米が炊けりゃどうにかなるんだよ」
 時刻の割に、山道は暗い。冬部はヘッドライトを点灯させる。
 立ちこめる雲は重い。今夜も吹雪くと、ノイズ混じりのラジオが言った。
「さっさと雪下ろしちまわねえとなあ。二人ならすぐ終わるだろ」
「……爺さん」
 たしなめても効いていない調子の祖父に、冬部は疑念を問いただす。
「帰りたがる理由があんのか」
「住みなれた家が一番落ち着くんだよ」
「なら家で寝てろ。外に出んな。医者の言いつけ守って静養だ」
「孫働かしといて呑気に寝てるジジイがいるかよ。動いてたほうが治りが早え、お前さんもわかるだろ」
「何か用事があんのか、外に」
 ミラー越しに祖父の顔を伺う。
 窓の外を眺めている、その表情は見えない。
「……そりゃ、みんなに世話んなったからな。お礼しに行かねえと」
「俺が回ってきた。雪下ろしも一人でいい。爺さんの仕事はねえ」
「……でもよお、」
 言葉は続かなかった。
 だんだんと雪の粒が大きくなる。ワイパーが視野を確保した。
「……死んでほしくねえんだよ。頼むから…………」
 祖父に事情があっても、鬼に情はかけられない。
 恨まれる覚悟はできている。元は人間だった怪物の駆除――鬼化変異個体を殺す職に就いた時点で。
 対向車とのすれ違いを注視するかたわら、小さく「おう」と返事が聞こえた。

 祖父は、約束を違えなかった。
 うまく回せていない家事も、居住設備の細やかな管理も。無理に助力しようとはしなかった。孫の不格好な手際を褒めて、助言が活かせそうな範囲でだけ幾らか口を挟む。
 手伝いにやってきても、忠告通りに片腕で無理ない範囲にとどまった。
 大人しすぎて怖いくらいだ。
 傷跡を清潔に保ち、規則正しく薬を飲んで、仏壇に手を合わせてから自身の部屋へ休みに向かう。日課は今日も変わらない。
「明日、病院まで頼むな。お前さんも早めに寝ろよ」
「わかってる。おやすみ、爺さん」
 押し入れから布団を担いで仏間に入ると、蝋燭がまだ燃えていた。
 冬部からも線香をあげて手を合わせ、蝋燭の火をあおいで消す。
 決して豪奢とは呼べない仏壇は、いつ見ても隅々まで整っている。線香の灰汚れすら見たことがない。

 位牌も遺影もひとつだけ。
 色褪せた写真で微笑む、年若い女性と目が合った。

 祖母は、ひとり息子――冬部の父を産んですぐ亡くなっている。
 もともと体の弱い人だったとも、産後の肥立ちが悪かったとも聞いた。地域のご年配や、墓参りに来た両親からの伝聞であって、祖父本人からの開示ではないが。
 冬部からも、祖父に馴れ初めなど尋ねたことはない。
 静かに墓守を続けながら暮らす祖父が、ずっと祖母を愛していることだけは、なんとなくわかる歳になった。
「……頼む。爺さんを守ってくれ」
 仏壇の前に座りなおし、柄にもなく呟く。
 死者に祈る静謐な沈黙は、数分とも、それ以上とも錯覚しそうに長い。

 いきなり電子音が鳴り響き、冬部は勢いよく振り返った。

「……驚かせやがって」
 石油ストーブの燃料切れだった。間が悪く、ポリタンクは外の納屋だ。
 防寒着を羽織って灯油缶を引っ張り出し、ついでに他の燃料残量も確認しつつ懐中電灯を手に取った。雪深く寒さの厳しい此処で暖房を切らすのはまずい。早起きの祖父が温度差で倒れる。
 祖父の自室は電気の暖房だったはずだよなと、ふと不安にかられた。
「……寝てたら悪い。爺さん、暖房ちゃんと使えてるか」
 返事がない。ノックしても同様。
 心中で断りを入れ、そっと引戸を開けた。暖房の確認だけできればよかったから。

 電気ストーブが沈黙して冷え切った、無人の和室がそこにあった。

 ◾️

 ひゅうひゅうと耳元で音が鳴る。
 全身に吹き付ける風の音なのか。衰えた自分の息切れか。
――朔に迷惑はかけられない。
 これは年寄りのわがままだ。孫の愛情を裏切っている自覚もあった。
 納屋の奥から引っ張り出した雪駄で雪原を踏みしめ、嗄れた声を張りあげる。
「おうい。どこだ。助けに来たぞ」
 ごうと鳴る吹雪だけが返事をする。
 一昨日、昨日とも手がかりがなかった。かなり山奥まで来たが、帰路を思うと長くはいられない。諦めたほうが利口だ――それでも。
 後悔が歩を進めさせた。一種の強迫観念、病的な衝動と言うべきか。
 正気ではない自覚はあったが、やめるという選択肢もなかった。
 一寸先も見えない闇を、小さな懐中電灯で辛うじて薄めて歩く。
「聞こえねぇか。こないだのじじいだ。殺したりしない――」
 瞬間、時が止まったようだった。

 雪に埋もれても鮮やかな、化学染料の赤が見えた。

 夢中で駆け出し、素手なのも忘れて雪を掘る。
 かじかんで感覚の失せた手で引き摺り出し、抱きしめる。生気のない頬を叩いた。
 耳元で何度も叫んだ。声が裏返り、喉が切れ、ひどい血の味がした。

 雪深い場所で万が一にも遭難しないよう設えたのだろう、目立つ色のダウンジャケット。
 愛情をそそがれ慈しまれてきた小さな子どもの額に、痛々しい角が露出している。

 氷と同じに冷たい体は、もう動かない。
 鮮やかな外套の色は、――あの子と同じ。
「……正行まさゆき、」
――あの子の激情を、受け止めてやりたかった。
 癇癪をぶつけて欲しかった。お前のせいだと泣いて罵ってもらいたかった。本音を飲み込まれる方が、手を伸ばして貰えなかったことのほうが、ずっと堪えた。
 あの子の母親が死んだのは自分のせいだ。男親の不甲斐なさで片親にさせた。
 自分に甲斐性があったなら。酒や煙草をしっかり取り上げ、過保護と笑われようと小まめに医者に診せていれば。強がりな彼女の嘘に気づいていれば。息子にべったりになって浮かれず、産後の身体をもっと注意深くいたわっていれば――全ての可能性に苛まれた。ひとつでも持っていれば、彼女は死なずに済んだかもしれなかった。
 母親を守れず寂しい思いをさせた息子に、愛情を注ぐことすら満足にできず。
 的外れも甚だしい厳しい稽古で苦しめて、ますますあの子は一人になった。
 しっかりした息子は暴力親に見切りをつけて、進学とともに家を出た。親が不甲斐なくとも暖かい家庭をつくった。親なんて頼らず大人になった。

 報いを受けたかった。あの子を幸福にしてやれなかった報いを。
 この幼い手が自分を裁いてくれるなら、本望だと思ったのに。
「……それはあんたの息子じゃねえよ」
 雪にけぶる闇の中から、無愛想な低い声がした。

 足音が近づいてくる。人影は猛獣のようにに大きい。
 若い頃の自分に似た恵まれた体格の男が、刀を携えてそこにいる。

 幻を見たのかと思った。
 息子は――正行は。武術を忌み嫌って、暴力と縁遠い道を選んだはず――

「……親父じゃなくて悪いな。爺さん」
 雪をかぶった冬部が、鼻を真っ赤にしながら目を逸らした。
 呆然と座り込んだままの祖父の腕から、子供の遺体を回収する。行方不明の男児であることと、生命反応がないことを一通り確認して黙祷を捧げた。
「……たぶん親父は、あんたが野垂れ死ぬことなんか望んじゃいねえよ。俺も仲良いわけじゃねえけど、それくらいはわかる」
 たくさんの人の声が近づいてくる。
 冬部の通報から雪山を捜索していた、地域の大人たちの声だ。「こっちだ」と大声で叫んだ冬部が懐中電灯で居場所を知らせる。
 救助に集まってくる気配を数えながら――老いた男は力なく、天を仰いだ。

 厚い雲で覆われた空に、大粒の雪が舞う。
 誰かの悲嘆も、叶わなかった一夜の夢にも。真っ白な雪が寄り添って降り積もる。

 やわらかな純白の雪景色が、痛ましい哀哭を吸い込んでいった。

 ■

「……雪で遊んだことねえ、だなんて言うんだ。……真っ白だって目えキラキラさせて、素手で遊び始めるから見てられなくてよ」
「滑り台作って、納屋からソリ引っ張り出して……ダルマだカマクラだと山程こさえてるうちに吹雪いてきてな。聞いたんだ。見ねえ顔だが、親はどこにいるんだって」
「…………それから先は、お前さんの知ってる通りだ。朔」
 祖父は全てを話した。対策部の聴取にも応じたらしい。
 病院の廊下には、年若い夫婦の金切り声が響いた。
 彼らの異変を察し、護城への報復の意思を聞き取って対象者を個人部屋に隔離保護。夫婦には適切な施設へとケアを依頼する――鬼に狂わされた人間のあとしまつ。地元支部の隊員たちは、異類対策部の仕事を粛々と遂行した。
 警護の絶えなかった一人部屋の病室は、そう長くはかからず平穏を取り戻した。

「お義父さん、どうして連絡くれなかったんですか」
「……朔」
「言うなって約束は前回までだろ。病院にとんぼ返りした爺さんが悪い」
 冬部が真っ先に行ったことは、両親への密告チクりだった。
 予想通り、両親は血相変えて駆けつけた――が。祖父の安全が確保され、面会許可が出るまでに時間がかかった。
 再入院と聞けば、一度目の入院経緯を探るのは自然だ。冬部が口を噤んだとて、病院関係者や入院仲間にご近所さん、親族からの情報開示請求を拒否できない異類対策部まで揃っている。両親が事件の全容を知るまでに時間はかからなかった。
「小夜さん、医者は大袈裟に言うんだ。気にせず仕事に戻ってくれ。元気な顔見れてなによりだったよ」
「お気遣いありがとうございます。そうおっしゃると思って、リモート勤務の環境を用意してきましたよ」
「りもー、……なんだぁそりゃ?」
「ふふ、お義父さんのお顔を見ながら仕事ができるってことですよ。さ、お口あーんしてください」
「……あのなぁ小夜さん、そういうのは」
「ゼリーはお嫌いでした? お林檎きってきましょうか」
「お袋、そのへんで勘弁してやってくれ」
「朔も食べる? はい、あーん」
 のんびりスプーンを差しだす母親に何を言うか迷って、冬部は無言を選ぶ。
 化粧箱から新しいゼリーを選び、使い捨てスプーンを手に取ることで、やんわりと拒否の意思を示した。

 祖父と母――主に母が楽しげに談笑する様子を見て、冬部はこっそり退室した。
 息子の嫁に強く出られない祖父の様子は微笑ましい。あれでは無茶もできないだろう。これでもかと心配されてむず痒くなってしまえと溜飲を下げる冬部に、低い声が呼び掛ける。
「朔」
 病棟の廊下に佇んでいた父親は、髪の色と体格だけは祖父と似ている。
 大きくて物静かな父親は、母と同じ頭脳労働に就いていた。父親の賢さは祖母譲りなのだろうかと、出来の悪い頭で思い至る。
「親父は入らねえのか」
「お前がいれば十分だよ」
「俺は関係ねえ。引き合いに出すな」
 じっと見据えると、早々に父親が目を逸らす。
 外見こそ圧迫感あれど、間違っても人を殴ったりはできない。気の優しいひとだった。
「……厳しい人だ。家を飛びだした出来損ないが行ったって、いい顔しない」
『死んで清々するくらいに思ってるだろ、あのバカ息子は』

 冬部は迷わず父親を羽交締めにした。
 驚いて硬直している大男を引きずり、担ぎ上げ、すぱんと開けた病室の中に問答無用で放り込んだ。あっという間に床を転がった父親は、理解が追いつかず目を白黒させていた。
「テメェの勝手な想像で自己完結して終わったことにしやがる。腹立たしいほど似たもの親子だな」
「っ痛たた……ゲホッ」
「……手荒で悪いな。腹割って話すまで出てくんな。爺さんもだ」
 祖父を睨み、母親には廊下に出てきてもらう。拗らせた二人を閉じ込めて扉を閉めた。
 しばらく内側から抵抗されたが、外側から押さえつければ力比べは冬部が勝った。

 ■

「こんの……っ馬鹿力だな……!」
「……やめとけ。無駄だ」
 肩で息する正行を、護城が低くたしなめる。
 振り向いた息子の目に映るのは、かつて見ていたものと同じ、強く厳しい父親の横顔。
「看護師か医者が気づく。それまで待ってろ」
『おつかれさん。学校たのしかったか?』
――昔はもっと、よく笑う人だった。
 いつからか言葉が少なくなり、辛く厳しい武術の稽古を息子に強いるようになった。父は師範の顔になって、家族の会話は死に絶えた。
 いや――いつからか、なんて。分からないふりはできない。
「……俺が『捨て子』だって揶揄われたからだろ。あなたが俺を鍛え始めたのは」
 片親をからかった空気が、いじめに発展することを危惧した。
 身を守り、時には悪意に抵抗できるように。剣客であった父が息子に与えられるものは『それ』だったのだと――理解はしても認めたくなかった事実を、辛うじて飲み込めるようになったのは、自分に息子が生まれたずっと後だ。
「……んなこと考えんな。お前さんは、暴力ジジイの虐待に遭っただけだ」
「、……そこで愛だと開き直ってくれるクズなら、俺だって簡単に恨めたよ」
 武の才がない自分に、戦うことを強いる父を軽蔑していた。暴力の支配を憎んだ。
 野蛮な世界から距離を置こうと勉学に励み、進学を機に地元を出た。これで解放されると安心した。あんな暴力親父とは縁のない世界で生きていこうと固く誓った。

 けれど現実は甘くなかった。
 未成熟な子どもの社会でも、暴力をちらつかす人間は一定の権力を持っていた。
 筋肉のある男で、体格が常人より大きく、無愛想で不機嫌そうだというだけで、面倒ごとは自分を避けていく。そんな薄っすらした実感とともに成長していった。
 小夜と出会ってから、嫌というほど思い知らされた。
「俺の意志を無視して鍛錬を強いたあなたのこと、許しちゃいない。……ただ、捉え方は微妙に変わった。愛情ゆえの躾、とかいう吐き気を催す文言を、あなたは使わなかった」
 それを自称しない程度の理性があった。鬼畜外道とばかり思っていた父親は、苦痛を伴う暴力だと自覚して鍛錬を課した。それもそれで思うところ無いわけではないのだが。
 ホンモノの邪悪を目の当たりにして、はっきりと差異を理解した。
「ヒトの形をしているだけで、理屈も言葉も通じない獣がいる。そいつらが理解できるのは暴力だけだった」
「、……ご両親か。小夜さんの」
「……俺は、俺が心底憎んできたものに助けられてから、……忌々しいと思ってきたものでしか小夜を救えなかったと諦めがついた頃から、正しさが解らなくなったよ。俺がこだわってきたことに何の意味があったんだって。ぜんぶ子どもの綺麗事で、結局あんたの言う通りだったじゃないかって」
「……朔を鍛えたことを、オレはすこし後悔してる」
 張りのない声が、弱音を吐露した。
 別人のように小さくなった父を目の当たりに、正行は声を失う。
「求められるのは嬉しかった。お前に拒絶された反動も勿論あった。朔が喜ぶからと調子に乗って稽古をつけて、あいつはメキメキ成長した。……でも、結果はどうだ。他人のために傷ついて、いつ死ぬかもわからねえ暮らしをさせてる。オレがそうさせたんだ。ろくでもねえ生き方だって、オレが一番知ってたのによ」
 下ばかり見ていた視線が、ゆっくりと正行を見据える。
 そして力なく、首を横に振った。
「……オレは間違ってた。お前が正しかったんだ。賢いお前は、馬鹿親の戯れ言なんて跳ね除けて正しい道を選びとった。……立派だよ、大したもんだ」
 それきり彼は黙ってしまった。
 俯いて、動かなくなる。裁きを待つ罪人のように。

「……朔が望んで、小夜も歓迎していた。あなたに育てられれば良い子に育つはずだと笑って、とても嬉しそうだった。……今もそうだろ。二人ともあなたを好いている」
 折り合いをつけられないのは、俺だけだった。
 自分の憎む父親は、きっと完全な悪人でない。小夜にありったけ気遣う言葉をかけていたのを聞いた。息子もよく懐き、真っ当な大人に成長してくれた。
 耳に入る話がどれほど信頼できても、和解の一歩は踏み出せなかった。
――子供の頃のちいさな自分が、許せないと泣いていた。
「寒い夜に布団で手足を温めてくれた、あなたの体温を知っている。……毎日おかえりと出迎えてくれたこと。俺が不当な扱いを受けたら怒ってくれたこと。不慣れなくせに自炊にこだわって、俺の好物ばかり上達したこと。弁当に持たせてくれた、ばかに大きくて不恰好なおにぎりの味……ぜんぶ覚えてる。覚えているんだ。だから余計に、どうしていいのかわからなくなる」
 ずっとあの頃のままがよかった。
 父の愛情を疑わないでいられた、昔の自分に戻りたかった。
「愛されていたと受け入れられないことも、なのにあなたを憎みきれないことも。やめたい」
 語尾は震えて、勝手に涙がこみあげ滲む。
 咄嗟にしゃがんで顔を隠した正行は、瞼に冷たいものを当てられてとびあがる。

 濡れタオルを構えた父親が、狼狽えながらそこにいた。
 骨と皮になって痩せた手は、懐かしい優しさで顔を拭う。
「冷やしたほうがいい……ああいや、ちゃんと新品のタオルだぞ。汚くない」
 明らかに距離感を掴みかねていた。
 そこの水道で濡らしただけだ、と。聞いてもいない情報をしどろもどろ明かしてくる。余計なことまで口を滑らせ、戸惑いながら口を閉じる。
「……あー、……違、わねえな、その……嫌なら、……」
 喋らないほうがいいと考えただろうに、沈黙には耐えられないらしい。
 落ち着きない様子で足踏みして、手を出したり引っ込めたりする不審な挙動を続ける。強く握りしめすぎたタオルから水がしみだして、入院着と床がびちゃびちゃだ。

 父の醜態をしっかり眺めて、ようやく子どもは泣くのをやめた。

「……他人の子どもにばっか良い顔しやがって。くそじじい」
 澱になった不満を吐き捨て、老いた父の手を握る。
 全てが変わる引金になった、あの日のように。
 握られて強ばった枯れ枝の指は、なんとか逃げずに踏み止まった。与えられる熱をこわごわと受け取り、緊張で冷えた指先は、次第に温まっていく。
「……でかくなったな、正行」
「あなたが縮んだだけだ」
「…………そうか。それもそうだ」
 言葉少なな親子が、ぽつぽつと声を交わしながら窓の外を眺める。
 寒さが和らぎはじめた空は晴れ、綺麗な青がどこまでも澄んでいた。