瞼の裏がひどく明るい。
死後の世界はまばゆいのだなと開いた眼に、知らない天井が映った。
身を起こす。確りした寝台に寝間着、屋根と壁のある家。他人の気配と料理の香り。
どうも話が違っている。最期の記憶を確かめて、現状を導く符合を探そうとするが上手くいかない。
私は絞首台に立った。足元の床が抜けて縄が食い込み――即死したはずだ。
素人の心中なんて半端なものじゃあない。あれは罪人を確実に殺す機構として完成されていた。し損じたとは考えづらく、現在の状況とも矛盾する。
仮に生きながらえていたなら、どうなる。
――私は、行うべき清算を終えていないということだ。
整頓された部屋を見回す。全身鏡に、見慣れた青年の顔が笑っていた。異常はない。
書き物机の引出しで鋏を見付けた。刺突を目的とするなら最適だろう。
突き立てた鋏が、首の皮一枚だけ貫いて動かなくなる。
息を乱すその人に鋏を奪われ、手を追いかけるまま視線を上げた。
「あら店長、おはようございます」
笑って舌を噛み切ろうとしたけれど、頬を挟まれ止まらざるを得ない。
「危ないですよう。ひとの顔いきなり掴まないでくださいな」
「いいから、まず、自殺をやめろ……!!」
「? 私に決定権はありませんよ。死にたがりみたく仰らないで下さいまし」
次の手を思案していたら、手錠でも掛けるみたいに両手首を併せて握られた。生半可なことでは振り払えそうもない。
とりあえず、もの言いたげな店長の話でも聞こうかと。一時中断の理由はそれだけだ。
「……答えてくれ。お前は誰だ」
「おや、ふふ。どうなさったんですか。大嫌いな従業員の名前をお忘れだなんて、店長らしくもないお笑いでいらっしゃる」
「その気狂いを演じている『本質』には誰が居るのかと聞いてる」
意味が分からなかった。どんな回答を望んでいるのかすら見えてこない。
「ええと、……さあ?」
そもそも私は狂ってなどいない。
人格を作るのは経験だ。私がどの様なモノであろうが『こう』出来上がる経験を積み重ねてきただけに過ぎない。演じているだなんて見当違いもいいところだ。
「『自分が何者か』なんて興味はありません。名も背景も、属性も。そんなモノは誰かの都合でころころ変わります。口先で幾らでも誤魔化しがきく」
「……御託はいい。何が言いたい」そっくりそのまま返してやりたい。
「左様ですか。ええ、……私を定めるのは『何を為したか』。店長は御存知でしょう」
欲求も矜恃も無く、刹那的な気分にのみ拠って生きた。楽観主義の昼行灯。
――私の意思など裏目にしか出なかった。だから全てを放棄した。
この出来損ないに守れたものがあったか? 結果が雄弁に物語っている。傷つけ、壊し、汚すことしかできなかった。
そんなものに固執したのが間違いだった。
切り捨てた結果が上手くいったのなら、そういうことなのだ。正解を探し当てたということ。目の前の笑顔のことだけ考えて、乞われるままに色んなものを与えていって。
「頼まれればどんな願いでも叶える、ひと殺しの死罪人です」
掴まれたままの両手首をすこし上げたら、店長が無言で手を離した。
苦い表情で私を見つめて、ぽつりと呟かれる。
「……血塗れた常識を持ち越した五歳児が、情操教育も欠いたまま大人の真似事をしてたと考えたら相応の結果かもしれないな」
誰が五歳児だ。
とはいえ妙な訳知り顔だ。店長の様子に違和感しか無い。
ヒモ生活で縁あった紳士淑女を観察して身に付けた擬態はそれなりの精度だ。店長からも疑念を持たれたことは無かった。だから凡庸な従業員として過ごせたわけで――どころか。彼から頂く感情は「軽蔑」一択のはずだ。
善悪勘定の破綻した狂人だと憎まれこそすれ、それ以外は身に覚えがない。
「……お前が自分を殺したのは、和泉への自責からだろう」
全て分かっているとでも言いたげな、憐れみめいた悲哀など。意味不明だ。
「お前の関与した殺しは嘱託殺人ばかりだった。家族に金を残したい。助けて欲しい。心身が疲弊しきってまともな思考も取り戻せない……死を望むものに与えてやるから『死神』と呼ばれ始めたこと、知っていたか」
「初耳ですねえ。案外、他者から眺めるほうがよく見えるのかもしれません」
「……そうだな。俺にはもう、お前の狂気に『理屈』が伴っていると解る。成るべくしてそう成った。……お前が自分に許せたのは、他者に利益を与えるだけの、無機質な道具としての生しか無かったんだろう」
他人のことにお詳しいなぁとにこにこする。
その悪趣味なひとを眺めていたら、真っ直ぐに視線を合わされた。
「死にたい奴を処刑したところで贖罪にはならない」
――死刑になりたいからやったとでも思っているのだろうか。
呆れた話だ。死にたければ勝手に死ぬ。よそ様を巻き込んですることじゃあない。
好きなように生きていたら、その行為が社会の癌だと宣告されただけだ。店長の論では原因と結果が逆転している。
死をもって償うべしとされた人間が生きていてはいけない。それだけのこと。
にこりと優しく微笑んでみせる。
この喉からは、柔らかくてふかふかな綿菓子みたいな声が出るので、とても良い。
「店長はすごいですねぇ。雇用関係のお付き合いでしかない私のこと、本当になんでもお見通しのようで。びっくりしちゃいました」
どんなカラクリか知らないが、ひとを見透かして愉しいのなら何よりだ。
構わない。そういう消費がお好みなら幾らでも付き合おう。
「なんていいましたっけ、先祖返り……? でしたっけ。店長もそれなんでしょうか。店長のお顔、既視感があるとは思っておりました。不思議なご縁でお互い大変ですね」
ああ、それとも「覚えている」のか「思い出した」か。どちらにせよ、今は他人で青年の見目をした私に繋げてくる理屈も意図も全く解らないけれど。
過去の基盤を引継いだ人間が在ったとしても、その上には新しく過ごした時間が蓄積されていく。異なる経験で構築される個体は同一ではない――顔が同じだけの別個体に何を見出す気だ。死人と生者を混同するな。懺悔をするなら墓前でやれ。
「とはいえ昔は昔です。店長も私も全く他人の別人なのですから、気にすることありませんよ。既視感がそれ以上にはなりませんし、店長と私の関係性は雇用主と従業員でしかありませんでしょう。ね?」
そう笑いかけた店長が、真っ白な顔色で縮こまって土下座したのでさすがに慌てた。
「……勝手に調べて本当に悪かった。誓って、侵害する意図は無かったんだ」
「店長、お顔の色が優れませんよ。体調を崩されたのでは……」
「声色と正反対の感情詰めるくらいなら率直に拒絶してくれ…………」
病人(推定)に体調を尋ねるも首を横に振られる。
代わりに――私の寝間着の、心臓のあたりを強く握りこまれた。
「だが、お陰で確信した。……まだ『そこ』に居るな?」
「? ご覧の通り、店長の目の前に居りますが」
「……お前に矯正なんかしたくなかったから、安心した。……引きずり出したりしない。お前の意思と尊厳を守る。……信じて貰えなくても、そばに居る」
気持ちだけは身構えたものの暴力は無かった。寝間着は穏便に離してもらえる。
居住まいを正した彼につられて正座する――何を告白されるとも知らず、
「話すと長いがお前は死ねない。男の身体も一時的、……可逆的な変質だと推測している。お前はすっかり慣れたかもしれないが、その身体はあくまでも『相良』だ」
「、…………えっと?」
待ってほしい。いちばん大事な部分を端折るな。
突然の不死身宣告も飲み込めていないのに「まだだ」とばかり首を振られる。
「五歳児に適切な教育も施さず放し飼いにした保護者にも責任を清算させて、お前の処罰は更正および無期限の社会奉仕に落ち着いた。これは決定事項だ。俺は監督役としてお前と暮らしながら、組織と連携して仕事を仲介していく。……場合によっては不死者も相手取る場所だ。お前の能力は休む暇なく欲しがられるだろうから、俺が調整役として介入する。人道的な労働環境の保障を約束する」
曰く、絞首刑は成功したものの死にきれず蘇生したらしい。冗談だろ。
死刑が叶わない事情も鑑み、生きて償うべしとの沙汰だそうだが、――殺せない生き物なんているだろうか。店長が慌てて自殺を止めにきたあたり疑問が残る。
実験の余地はありそうだ。
質疑応答の時間を設けて頂いたので、とりあえず挙手した。
「……ひとのこと五歳児って呼ぶのやめて頂いていいですか」
「実年齢が分からないんだから仕方ないだろう」
「貴方のお話を鵜呑みにするなら和泉さんと同い歳なのでしょう」
「……まだ未成年か。……本気で、お前の人生に吐き気がする…………」
勝手に覗き見て、勝手に催さないでくれないだろうか。
「……二度と殺させない。お前自身のことも」
様子のおかしい店長にもだいぶ慣れてきた。
女こどもに甘く、男には甘くなくとも尊重は欠かさない人だ。私に向ける感情が妙とはいえ、本来こういう人なのだから。頭がおかしくなった訳ではないのだろう。
「お前の信念は間違っていなかった。俺が証人だ。それを棄てさせるものが不可抗力だというなら、不幸体質だろうが死縁だろうが捻じ曲げてやる。……だから、頼む。もう一度だけ、より良く生きてくれないか」
「そういうのは、更正の余地あるかたに使うお言葉と存じますよ。文句なしの満場一致、正真正銘ぴかぴかの死罪人に何を仰られるやら」
「……許される所業だとは言えない。だが、お前の基盤が『誰』かは承知しているからな。ばかみたいにひとが好いんだ。どうせ悪人にはなり切れない」
そう仰られると極悪人になるのもやぶさかでない――とか言ったら怒られそうだ。
手を握られた。店長は、こんなに体温が高かっただろうか。
「俺を変えてくれた存在を、無価値だとは言わせない」
熱が伝染るまで待っても動きが無かったので、剥がす。
手っ取り早く笑顔を貼りつけ催促した。
「社会奉仕と仰いましたか。伺ったお話から察しますに、私にはお仕事があるのですよね。何なりとお申し付けくださいませ」
「、……わかった。案内するから、ついてきてくれるか」
寝間着のままでいいとの言葉に甘えて、店長の背中を追う。
どうやら此処は一軒家とみえた。廊下へ出たついでに風呂とトイレの場所も教えてもらいながら、明るい居間へと通される。
ダイニングテーブルへ着席を促された。椅子は二脚。この家に、私達以外の気配は無い。
「冷める前に食べてもらいたい」
「……しごと、」
「ああ。食べることが仕事だ」
楕円形の白皿に、湯気立つパスタがくるりと丸まる。
とろとろに絡むクリームは薄桃色、匂いはたらこだ。てっぺんを青々とした菜葉が彩り、その上に黒胡椒でカリカリに焼かれたパンが収まった。最後にレモンの輪切りを添える。
小鉢のサラダには白い食用花が載っかって賑やかだ。追加で熱々のコーンスープが加わり、店長お手製の料理は出揃ったらしい。
「すこし遅いが朝食でいいだろう、……もしかして飯の匂いで起きたか?」
「そうですかねえ、食欲は薄いほうなのですけど……」
「フードファイター並に食べる人間の発言とは思えないんだが」
「……逆では? 幾ら食べても満たされないなら、食べるだけ無駄じゃありませんか」
私の身体はどういう仕組みか、幾ら食べても際限なく入る。満腹というものが無いらしい。そんなモノ満たそうというほうが億劫だ。飢餓感なんて慣れているし。
不思議と空腹で死ぬこともなかったから、まあいいだろうと放置してきた。それなりに腹に入れば何でもよくて、満たされないのが普通だから――そんな所感を述べるうち店長の顔色がまた悪くなる。
「……燃費が悪いのは、呪力に食われてるせいか」
「店長?」
「あ、ああ。何でもない……気にせず食べてくれ」
食べてくれも何も、この料理は一人前しか無い。
どう見てもこれは店長の朝食のはずだ。横取りしたところで気がとがめて味なんか楽しめないのだから、自分の分は自分で作ればいい。
キッチンをお借りしたいと申告するか迷ううち、店長が得心したみたいに補足する。
「俺の娯楽は『作るところ』までだ。俺が食べたところで大して意味の無い行為だし、食べ飽きてるから気にするな」
そんな無茶苦茶な話あるか?
本気で馬鹿にされているのか。それとも、この程度で煙に巻けると思われているのだろうか。五歳児扱い。有り得なくはない。さっきの今でひとが変わるわけないから。
調理には食欲という動機が伴うのが自然だ。店長だってヒトの仕組みをもつ生き物である以上、摂食行為を避けては生きられないだろう。飢餓でも死なない私よりよほど優先順位が高い――痺れを切らした店長にフォークを握らされた。
「……お前、そういうところだぞ。悪党に擬態するならもっと自分勝手になったらどうなんだ。向いてないんだから早いとこ諦めてくれ」
「先程から店長のお話は全く要領を得ませんが、意地の悪い煽り文句というニュアンスで受け取らせていただきますね」
調理途中で満腹になったのかもしれないし。完成品を眺めて飽きたか。飽きるって何だ。
改めて謝辞を述べ「いただきます」と手を合わせた。ぐるぐると解けない疑念を持て余しつつパスタを巻きとる。とろりとしたソースがふんだんに絡んだ一口をほおばった。
おいしい。
クリームは濃厚だけれど、柑橘の風味でさっぱりと食べられる。黒胡椒の匂いも食指を進ませあっという間に消えていくのでペースを落とそうと自戒する。
知らない葉物も混じるサラダはみずみずしくて、ドレッシングを避けて野菜の味を確かめていた。食用花は思ったより淡白だけれど、積極的に食べたことがないものを口に入れるのは面白みがあってとても美味しい。
コーンスープのとうもろこしが驚くほど大粒であまく、一粒ずつぷちぷち噛みしめた。勿体つけて冷めてしまう方が忍びなく、温かいうちに最後の一滴まで飲み干す。
「ごちそうさまでした!」
空のお皿に手を合わせてから、向かいで笑いを堪える店長に気付いた。
「……お料理、どれも美味しかったです。申し訳ありません。作って下さった方にひとことの感想も無く空にしてしまって、たいへん礼を欠いた粗相を」
「いや、……っはは。本当に何も喋らないのに、顔見ればだいたい分かる、のが。おかしくて…………」
「……………………」
「……悪い。何だ、馬鹿にしてるわけじゃあない。美味そうに食べてくれるなら作り手として冥利に尽きる。次からは二人分作るから。な」
食卓から皿を下げついで、シンク周辺の操作について尋ねた。フライパンや菜箸、片付けていいものを確かめながら食器洗いスポンジに洗剤を垂らし、汚れの軽いものから手をつけていく。
――私はどうするべきだろう。
鍋、ガラス蓋、包丁に各種洗剤――凶器として使えなくもないラインナップを眺めながら食器を片付け、調理器具の定位置を教わりながら収めていく。
治りが早くて頑丈なのが取り柄の身体だ。真性の雑草。毒劇物ならまだしも、ご家庭で触れ合える程度の化学薬品は心もとない。漂白剤のボトルを呷っても良いけれど、現時点、店長の監視下でやるのは愚行だ。
吊って駄目なら切ればいい。焼いて沈めて、ひとが死ぬ方法は幾らでもある。死罪人にどの程度の自由があるか確認してから、隠れられる範囲で試行するのが賢明か、――
そういえば、心中に失敗した事があったような。切るのと沈むのは望みが薄い。
思い当たる節を数えるだけで気が遠くなる。どうしたものかと途方に暮れつつ青くて綺麗な中性洗剤を眺めていたら「片付けありがとう」と声を掛けられた。
「珈琲でも淹れようか」
店長の穏やかな声色に、懐かしさを覚える自分がわからない。
ぴかぴかした銀色のケトルが火にかけられ、たやすく食指はそちらに逸れる。店長の珈琲は素直にうれしい。話の続きを伺えるかもしれないし、居眠りしないよう気をつけよう。
「店長にいつでも珈琲をねだれるの、役得ですね」
豆を挽くミルの音に、心地好く耳を澄ませた。
