情緒がいそがしい怪物

 俺は今まで何を見ていた。
 彼女が目を覚ますまで、その指先に触れることすら出来なかった。生きているか不安になり、微かな呼吸音に耳を澄まして安堵することを繰返した。
 相良から歌を奪った一因は、虐待の傍観者だった俺ではないのか。
 兄の隣に戻してやる事は可能だった。吸血鬼ばけものである俺なら出来た。楽団は彼女を守り、虐待養父と徹底的に戦っただろう。いや、それより俺が――不干渉に反する思考が抵抗なく出てくるようになってしまった頭を抱える。
 いま養父アレを見たら殺しそうだ。
 獏が知らしめたかった心情変化は痛いほど解った。頼むから焚き付けるな。怪物が感情任せに嬲り殺せば呪力痕跡まみれの死体が――ああ残さなければいいのか。違う。加害者が既に死んでいる事実に助けられた。
 不死者たる俺が干渉しなかったとて、彼女の心は人間社会の中で潰され歪められていった。どちらが悪質だという疑問が消えてくれない。

 手を出すな、情をかけるな。人の世に深く関わるべからず。
 怪物の不文律の意義は何だ。力の強いものだからだ。本来死ぬ運命にあったものを生かし、生きるものを死なせる。憎しみひとつが呪いと化して、人の命など容易にねじ曲がる。
 人智の及ばぬ異能を以て、社会に混乱と不和を与えかねない毒を持つからだ。
――だが。本当にそうだとしても。
――身寄りは無く、人の世とろくに縁も繋いでいない。ぽつりと浮いた子ども一人助けることは、それほどまでに問題だったか?

 何を思い上がっていたのか。
 不死がなんだ、異能がなんだ。長い時間に倫理を鈍化された死に損ないだろう。不思議を扱えたとして、彼女の心ひとつ元通りに出来やしない。
 死なないだけの人間くずれが彼女に何をしてやれる――いや待て、
 そも俺は、彼女から信頼の置ける人物と認識されるに足るか。
 気づかない方が幸せだった。女遊びだけは激しい住所不定推定無職に一切を問い質さなかった彼女の無関心はそれなりに心を折った。痛む心が俺にもあった。
 変化はきっと劇的ではない。
 言葉を交わす度、触れる度。成した結晶は水底へ確かに降り積もっていて、静かに在ったから澄み切ったままでいられた。音のない変化に気付かなかった。
 ひとたび揺さぶられ目の前に広がってしまえば、なぜ気付かなかったか呆れるほど。
 揺蕩たゆたってまたたく結晶が、透明だった水一面を色彩で満たす。太陽を浴びた極彩色の小魚の群れが縦横無尽に泳ぎはじめる――騒然たる景色も、些細な言葉で一喜一憂する情動も。自分の中に有るものとは信じ難い。
『家で待っててくださると嬉しいです』
 笑いかけられただけで平常心を保てないのだから、もう俺は駄目だ。

 窓を開けて空気を入れ替え、天井や壁の埃を払う程度に掃き清める。
 幾らでも手を出しそうになるのを堪えた。親しくない相手に部屋を整えられても不快でこそあれ喜びはしない。さいわい家具が少ないので埃を払うだけでもさっぱりしそうだ。
 彼女の笑顔が見たい。家族から注がれてきた愛を、再び受け取れるようにしてやりたい。幸せを享受して欲しい。許されるなら隣に居るのは俺がいい。
 反省も贖罪も、やること尽くしの人でなしに何処までが許されるかは分からない。可能な限り誠意を尽くして、彼女が俺の存在で苦しむのなら潔く消える。
――歌を、取り戻してやることは出来ないだろうか。
 調声技術が健在な点を鑑みても、歌声「だけ」が出ないなら発声器官は問題ないはずだ。心因性の発声障害に近いなら心的外傷の治療で回復する見込みがあるかもしれない。
 現状、俺が傷に触れることを許してもらえるかが一番の課題だ。
 そう考えると距離感が掴めない。精神面は見せないけれど泊めるのは許可、近くで着替える分にも抵抗がない。今朝だって俺が家に居たことに対して何も、

 目覚めた時、家に入れた覚えも無い男が枕元にいるのは恐怖だったろう。
 だが彼女は説明を求めなかった。俺を信頼しているからではない。全て諦められている。どうでもいいと思われている――そんなもの「知人」止まりで当然だろうと、過去の傷まで抉って死にたくなった。

 ■

 西の空が茜色に染まる頃、二人分の足音が近付いてきた。
 歩きにくそうな足音の正体を確かめると、頭巾付きの外套で全身を覆い隠した彼女と、花街の用心棒らしき風体の男が話し込んでいた。
「手紙だけじゃ姫様が寂しがるんです。お願いしますよ琥珀の旦那」
「仕事が落ち着き次第うかがいます」
「そこは嘘でも来月とか言って!」
 ごねる男と彼女を剥がして間に入る。
 初めこそ驚きを見せた男は、にやにや笑みを浮かべてきびすを返した。
 男に手を振り返す彼女の肩をひかえめに掴む。外套越しにも薄い肩に心臓が跳ねた。
「……危ない時は呼んでくれ、頼むから…………」
「彼は拝金主義の腕利きです。私の伝手つてなので無害ですよ」
 彼女はひょこりと歩きだし、疑問符の消えない俺を家の中に引きずり込んだ。

 暮れの陽が、薄暗い屋内を紅に浸す。
 抜け殻の外套に横座りした彼女が、肩と腕をさらけ出した白の洋装ドレス姿で俺を見上げる。
「マキさんから見て、私はどのように映りますか」
 白の洋装ドレスは胸のすぐ下でシルエットを絞り、足元までをすとんと隠す。柔らかな布に透ける脚線が毒だった。鎖骨から首まで覆う精緻なレースは、爪でかんたんに引き裂いてしまえるほど脆い。
 肩に届く黒髪は丹念にかされ、揺れるたび青を帯びる艶を纏った。
 金の双眸に射られて唾を飲む。うろたえた理性は本能が薙ぎ倒した。桜色の爪に彩られた指に触れ、肩を引寄せ抱き締める。触れる肌の柔さと甘い花の香を感じるたび、酩酊感に頭がくらくらして何も考えられない。
 彼女が微笑んだ。唇の紅を指で拭い、そのまま食らう。
 ちいさな唇を食み、稚拙に惑う舌を絡めとる。微かに漏れる吐息ひとつが、芯から溶かされそうなほど扇情的だ。身じろいだはずみで滑らかなももが露わになった。
 両腕に収まってしまう身体をそっと横たえれば、寝台に黒髪が広がる。
 真っ白な肌が夕紅に色づいて、ほんのり上気したように染まっていた。
「マキさん、」
 俺の首に、彼女の滑らかな腕が絡む。
 彼女から抱き寄せられた。強請ねだるみたいな仕草が愛おしく、熱に浮かされた頭で「どうした」といた。自分の喉からこんなに甘ったるい声が出るとは知らなかった。
 耳元で、吐息混じりに囁かれる。
「これは子を孕まない身体です。安心して幾らでも、如何様にも。貴方の好きにお使いくださいませ」

『使え』、と。
 言葉の意図を悟った瞬間、全身の血の気が引いた。