俺は血を飲まなくなった。一番美味いものを知ってしまったら、他の血を飲む意欲も湧かず――彼女を失う事で吸血衝動が鎮静するなんて、馬鹿みたいだった。
吸血以外の代替法や摂食での呪力補給に切りかえるうち、飢餓の渇きには慣れた。
呪力が目減りするごと、吸血鬼として緩やかに弱体化していく自分がよく分かる。維持管理に呪力を消費する隠れ家は封印するなどして自然消耗を抑えたが、延命措置でしかない。数百年にわたる膨大な呪力の貯蓄を切り崩しているだけだ。
見かねた獏が俺を訪ねてきた。餌と心中する気かと脅された。
「……それでもいいかもしれないな」
「あんたが死のうがどうでもいいけど割を食うのはあたし達よ。ロマンチシズムに酔ってんのか知らないけど自己都合でしか動けないとこホント変わんないわよね。そういうとこクズだって言ってんのよ」
突き飛ばされ、壁に頭を打ちつけた。
後頭部を押さえて座り込んだ俺を見下ろし、獏が低い声で言った。
「良い報せよ。あんたが操を立てたい女の子がそろそろ転生するわ。隠蔽はしてあげるから攫って囲うなり好きにして、餌を確保なさい。いいこと?」
まさかと思った。だがまだ楽観より、理性が勝る。
「同じ顔なだけの別個体に故人の影を探す気はない。失礼だ」
「どうかしらね。逆に聞くけど記憶持ちで生まれたらどうするの? 肉体が新しくなっただけの、正真正銘、あんたの初恋よ」
――獏の言葉が天啓に聞こえた。
転生すれば肉体は新しくなる。生き餌の契約も消失し、不死化変異を起こす前のはずだ。
俺がこの思慕を適切に対処すれば、相良を不死者に歪めなくて済むかもしれない。彼女に何も捨てさせなくて済む――その為に俺は何ができる。
「……獏。お前まえに、俺の記憶を完璧に封印出来ると言ったな」
「……聞きたくないけど、どうして確認が必要なのかしら?」
「俺の記憶を封印してくれ。相良の転生に障らせないように」
「バッッカじゃねぇの!?」
職務放棄か恋愛ボケと罵られながら獏の足元に縋り着いた。相手にされている顔でなくても、何だかんだ聞いているだろうという予感はあるので一方的に説明した。
獏は舌打ちを隠さない。「無理よ」と断言された。
「やりたい事は解るけど無理、あんたの呪いが染み付いてる。どう楽観しても一生涯不死化変異の要警戒個体だから諦めて娶りなさいって言ってんの。……ていうか、記憶消した状態であの子に会っても食べるでしょ。結果は同じ。何がしたいわけ?」
「……相良が死ぬまで人間に紛れる。前からそうしたいと考えてはいたんだ。……人間の協力者の伝手もある。不死者の記憶さえ封印できれば」
「その間の仕事どうするつもりよ。中央の監視は。不死者の鎮圧は!」
「中央の不死者はほぼ居なくなった。鬼化初期個体掃討の折に相当数が他地区へ逃げたし、そうでないものは処分された。お前も把握しているはずだ」
監視すべき人口こそ多いが、それ以外は他地区の不死者に協力を仰げば省ける仕事が大半だ。だから弱体化しつつある俺でも管理が易かったとも言える。
頭を下げた。床に頭を擦りつけた。
「土地守の職務は、監視だけで済むように支度する。それなら負担は軽いはずだ。可能な限り情勢を安定させる準備は早急に整えるし、俺の我儘が終われば北の管理を……いや、俺はお前ほど繊細に術式を扱えないから代役は無理でも迷惑を掛けた十倍、いや無期限でいい。小間使いでも奴隷にでもしてくれ」
恥も外聞もなく懇願した。この瞬間、獏に取り入れなければ意味がなかった。かつて相良だった新しい命が生まれようとしている今、俺の尊厳など塵同然に無価値だ。
土下座を続けた。獏のハイヒールが後頭部に刺さった。構わなかった。
「……なんでそこまで必死になんのよ。ていうか、前からって言った? そのトンチキを? 人間ごっことあの子に何の関係があんの……いい加減あんたの恋愛ボケには付き合いきれないわ」
最後の我儘かと聞かれた。
結果がどう転ぶかに関わらず、それさえ終われば人間の血を飲んで、以前のように職務を果たせるのかと。もう二度と私情を職務に持ち込まないかと。
頭を上げられなかった。胸を張って「そうだ」と言える自信は無かった――それでも頷いた。相良を喪ってから長く蝕まれてきた恐怖が、そうさせた。
忘却を恐れている。
彼女の声が、熱が遠のいていく。忘れてしまった俺は、彼女と出会う前の自分に戻るんじゃないか。また同じ過ちを繰り返すんじゃないか。それが怖くてたまらない。
彼女は俺を変えた。変化を望む芽を与えた。
過ごした時間を、自分の中に生かし続けたい。
長命のうちに鈍らせた倫理観を取り戻したかった。もう一度人間として生き、情操教育を一からやり直せば、もう少しましな人間になれる気がした。
相良とよく似た顔の誰かが、相良と同じような理不尽に苛まれていたとしても、人間の手で助け出すことができる。
それは、かつて俺が見過ごした彼女への贖罪にもなると感じた。
過去は変えられないのだから考えても仕方無いと、きっと相良は言うだろう。
それでも俺は、後悔でしか彼女の形を確かめられない。贖罪なんて要らないのだと下ろしてくれた重荷をわざわざ背負いなおしてまで、その体温にしがみついている。
これで相良を覚えていられると、安堵している。
