彼の独白①

 人というのは不思議なもので、見た目が変われば中身が変わる。
 自己の認識が別人になってしまえば、遥か遠くの「私」の記憶は見知らぬ他人のことでした。自分には縁のない人生を歩んだ愚か者。既に死体となった残骸。

 大抵のことはどうでもよかったのだと思います。
 信念も矜持も持ち合わせが無い。うえに、一切の欲求が湧かないものだから、三日三晩を道端に立ち尽くすだけで過ごしてしまった。降る雨粒を数え続けた三日でした。
 笑って雨粒を眺める私を、傘をさした女性が見ていた。

 彼女は「おいで」と言いました。
 だから、ついていった。

 拾われ、捨てられることを繰り返し、他人の家々を渡り歩いて生活しました。
 居候として出来ることを、出来る限りでこなしていった。飼主からの要望は様々だったけれど、家事や炊事の労働を任せていただくことが多かったためそう振舞うようになった。その他となると人の数だけ趣味があるので開けてみないとわかりません。見聞が広がりました。詳細は差し控えつつ、総じて死ぬモノでは無かったとだけお伝え致します。
 初めこそ不気味だと捨てられころころ居場所が変わりましたが、多くの家主から人格情報を収集して、意見をもとに修正を重ねて概ねの『自分』が固まるにつれ安定した。
 笑顔で迎え、暖かい食事と綺麗な住居を提供する。相手を侵害せず、親身に話をききながら、可能な限りの助力をする――どこかで覚えのあるやり方のような気がしました。自身の行動を最適化していたつもりで、上手な誰かを模倣していたのかもしれない。
「……サクラさんから聞いてはいたけれど、……琥珀くん。その姿は」
「いいえ。今の私は名無しですよ、多々良様」
 多々良様が複数の戸籍を用意してくれた。ヒモ生活は特に名乗らないので困りませんが、数年ごと戸籍は変わって最終的に「雨屋あめや浩太こうた」で確定する。
 死体がサクラさんと交わした契約の対価は、私が肩代わりするつもりだった。継続的に仕事を受注し、遂行した。医療機関への受診制限など複数の制約が課された。
 仕事があると解っておりましたから、あらかじめ裏街で鍛錬も始めていました。想像より遥かに軽く、描いた通り動く手足に驚きました。長躯になり、機動が落ちた分を体格差で覆せるか――そう悩んでいたのが嘘のようです。速さはそのまま間合いが伸びた。
 聴覚の探知領域や精度も優秀でしたから、お仕事の際には素顔の一切を隠すことが出来ました。どの様なご縁か分かりませんが有難いことです。
 蜂蜜色の装身具ピアスを頂きました。耳に穴を空けたいと仰って、飼主様は笑顔でピアッサーを構えていた。一連の儀式を楽しんだ後、共寝を求められ応じました。相手が誰でも、男女も上下もこだわりなく。肌に触れ、交わることに抵抗はありませんでした。

 鍛錬で裏街に通ううち、素顔を隠した容貌を指して死神と呼ばれていることを知った。
 依頼が届くようになった。請け負える内容でした。出来ることならやればいい、断る理由もありませんから。業務に選り好みが無いのでとりあえず代行屋を名乗りました。
――どうせ身を立てるのなら、誰かの願いを叶えたほうが有意義でしょうし。
 多様な価値観と出会った。様々な人格に触れた。「そういうものか」と引っ掛かりなく飲み下せた。多彩な声がそれぞれに主張する「幸せ」を、指示の通りに形にしていく。
 時おり、鈍い胸焼けがした。
 必要に応じて死体を踏みにじりながら、頼まれたことは取りこぼし無くこなした。
 ヒサメさん――氷崎さん。に、お会いできました。彼は前生の記憶をお持ちで、私に一言「馬鹿だね」と零してあとは何も訊かなかった。毒物の調剤依頼を快く請けてくれたほか、学校行事というモノにお邪魔させてもらえたのが面白かった。小学校の卒業式を終えた氷崎さんを持ち上げてぐるぐる振り回したら後できつく絞られました。
 どうも高度が良くなかったらしい。少年と青年の身長差がいけないなと思いました。
 成長期を迎えた氷崎さんが私をさほど見上げなくなったので、安心してぐるぐる出来ますねと笑ったところ無視された。目線ぐらいくれてもいいのに。

 街で見知った声が聞こえる。死体の指先がぴくりと動く。それでも死体は死体のままで、私と彼らは見知らぬ他人だ。
 私と死体には明確な断絶がありました――その境界あわいが揺らいだのは一度きり。
 ホテル街で見掛ける度、違う女性を連れてらっしゃる男性でした。すっかり「ヒモ」「男娼」という肩書が板についた私は、彼のことを近いモノかなと思っていたのだけれど、当時の飼主様から「あれは遊び人て言うんだよ」と訂正していただきました。
 既視感はあるけれど、記憶にある瞳は赤い。遊び人のそれはすみれ色をしていた。
 遊び人は喫茶店を営んでいた。ヒモではなかった。製菓を教える約束で彼の家に居候するうち、私が人殺しだと知られた。彼は動機を問い、激昴のあまり絞殺まで試みかけた。
 遊び人は殺人代行を許せないようでした。貞操観念が無くても倫理観は揺るぎない。
 最終的に、喫茶店で雇うから代行屋から手を引けとまでお言いになる。
 断ってもいい。変わりたいならお前が変われと彼は仰る。渋い顔をしていた。本意でもないことを喋るのが不思議だった。よく分からないまま口が開いていた。
「変われますか」と死体が喋った。
 口にした以上、遵守じゅんしゅすべき契約になってしまった。
 殺人代行をやめ、製菓担当のバイトとして喫茶店に居着きました。職歴が伴って賃貸契約が結べるようになり一人暮らしを始めた。バイトを増やし、ヒモはフリーターになった。
 生活のために働いている。私は何も変わっていないけれど、殺人はしていない。
 ならば店長は満足なのか――ちらと眺めて視線がぶつかる。いつも苦虫を噛み潰している。いさめ、呆れ、頭を抱える。説教は長い。ずっとその調子で、何をしても笑わない人でした。
「……どうしてお前はカフェインで眠くなるんだ?」
 休憩は終わったぞと揺すり起こされる。まかないの珈琲を貰うと度々そうなった。
 毒も薬も効かない身なので、私の方こそお伺いしたいのですけれど。
「店長の珈琲が、眠くなるほど安心する味ってことでは御座いませんか?」
 でまかせに茶化して笑ったところ、眉をしかめて「阿呆か」で終わった。