「……琥珀くん、なのか?」
覚えのある声色の上司と、女性装がよく似合う男性が立っていた。
かつてタタラ様と呼ばれていた便利屋の頭目から、記憶を持ち越した生まれ直しが起こりうることを聞いた。彼もその一人だった。楽しんでいるそうなので、らしいと思った。
「生存者がいてよかった。救急隊の到着までもう少し辛抱して欲しい。……損傷は、内臓まで?」
タタラ殿は、私が隠す腹部を見ていた。
表現し難い状態をどうしたものかと迷い、腹の傷を晒した。
「……これは、」
「あら丁度いい。あたしに見せて」
桜色に揺れる長い髪が綺麗なひとは、タタラ殿から「サクラさん」と呼ばれていた。
今も治りつつある腹の風穴を前に、その人は眉ひとつ動かさなかった。ひと通り触れて満足したのか、凄惨な事件現場の方へ足を向ける。
「治療は要らないわ。多々良、その子が逃げないよう見張ってて頂戴」
サクラさんと入れ替わり、身体を覆えるタオルを着せ掛けてくれた頭目は、現在の氏名を多々良潮と言うらしい――気遣わしげな多々良殿から、彼の現在の経歴を聞いた。過去から様変わりした社会情勢の話も交えて。
彼は今も退治屋稼業の頭だそうだ。ただし肩書は公的なもの、名前を「異類対策部」として運営されている。人間社会から鬼を排除する仕組みが社会基盤に敷かれたという。
僕は北の支部長なんだと微笑む多々良殿に、不躾な問いをした。
「……鬼にも人権を認めさせるという、貴方の理想は?」
「……叶わなかったよ、とだけ。……褒められたことじゃあないけれど、北の裏街を受け皿に改装することにした。鬼たちに自治を任せ、彼らが脅かされない場所として」
「謙遜ね。あんたの仕掛けた革命は誇るべき進歩よ。多々良」
戻ってきたサクラさんの腕に、眠る兄が抱えられていた。「生存者一名」と微笑んで横たえられた小さな身体に駆け寄り、頂いたタオルを掛けた。
「……琥珀くんが守りたかったのは、この子かい?」
「あら、その質問は意地悪よ。ねえ?」
サクラさんは私に笑いかけた。黙ったまま首肯する。
愉快そうに続いた言葉が、私の心中を的確に刺しにきた。
「大事なお兄様が、自分のために殺しに手を染めた事実を、無かったことにしたい」
――それが出来たら苦労しない。無理なことなど解っている。
兄の中から血塗れた記憶を消し去りたい。これから穏やかに続くべき人生に、こんな事で影を落として欲しくなかった。当たり前だ。でも。
「……それは記憶の改竄です。その様なことは、出来ません」
「あたしなら出来るわ」
サクラさんの自信が理解できなかった。解らないのだから疑問を持ち、根拠の提示を求めるべきことのような気がしたけれど。
『手品だ。隠しておくから心配いらない』
謎の自信を持った得体の知れない人を、既に一人、知っていた。
「今生、あなたと生きてきた記憶と、前生の記憶の封じこめ。……永続は保証できない。お兄様の抵抗力次第では思い出すでしょうけれど、あたしなりの最善を尽くすわ」
サクラさんはもちろん、多々良殿の反応も確認した。善良な外面を繕うのが上手い彼に通用するか微妙だけれど、サクラさんが嘘を並べているようには見えない。
信じるかは私次第だ――正座して深く頭を下げ、額を地につけた。
「貴方のご慈悲に、心からの感謝を捧げます。……なにぶん取るに足らない命ですが、何を支払えば、ご助力に見合う対価となり得ますか」
「ええそうね、弁えた子は好きよ。……それなんだけど」
サクラさんが、多々良殿の肩を掴んで連れてくる。
「ここに対策部北支部長を拝命する若造がいるんだけど、それなりに敵も多くてね。均し甲斐のある獣道とでも思って欲しいんだけれど」
「汚れ役をご所望、と」
「話が早くて嬉しいわ」
詳細な労働条件は追って通知すると言われた。不満は無かった。
兄をお願いしますと頭を下げ、彼らと別れた。
山の中を歩き続けた。頭の中で、兄の声がぐるぐると再生され続けた。
足の動かない鬼に繰り返しナイフを突き刺し、返り血をずぶ濡れに浴びた兄が振り向く。私を見て表情をほころばせ、慈愛に満ちた声で告げる。
「大丈夫。今度こそ俺、相良のこと、守れるから」
「だから、どうか、泣かないで」
『笑ってよ、相良』
頭の先から血濡れた兄の――至極満面の笑みを思い返した、瞬間。
私は一体何をしていたという疑問と罪悪感といっそ死んでしまえたらというもしもとそれは叶わないだろうという分かりきった指摘と再度変わるはずもない現実が記憶に蘇ってまた嫌悪感が頭をもたげてひどく呼吸が苦しくなってそれから、
急に全部、面白くなった。
ずっと馬鹿みたいに笑っていた。愉快でたまらなかった。だってそうじゃないか。
兄を傷つけるのは私だった。昔からそうだ。幼い頃の約束を破って悲しませ、騙し続け、最終的には命を張ることでしか守れず精神外傷を負わせた。
やさしい人が、やさしいままでいられるように。言葉ばかり達者で全部口だけ。兄の手を血で汚させたのは私だ。私の不始末が諸悪の根源で、最後の矜持も自分で穢した。
静かな山野に響く雑音は、調律の狂った楽器と同じに不快な音律を歪ませて鳴り続けた。高くも低くも、男も女も最早知らない。
足は勝手に動いていた。兄の前から居なくなろうと思った。兄に関わりのない、全くの他人になりたかった。私という存在は、あの優しい人を蝕む腐食としかなり得ない。
踏ん切りがつかなかった情を、寂しさを、痛みを――みな私の我儘だった。そんなものは、切り捨てた。
二度と繰り返すまいと。そう、強く願って。
意識を取り戻した私は、地元住民によって身柄を保護されていた。
女児が山野で遭難している、事件性すら漂う事態にうまい言い訳を探し、
「私は、」
喉を掴んだ。
いま、出た声は。
――この喉は『誰の』だ。
唾を飲む。骨ばった長い指の下、隆起した喉仏が動いた。
細い首と薄い筋肉。血の透けそうな、不健康な白さの肌が目の端にちらつく。長い手足。女児の身丈とは程遠い高さの視界を邪魔する髪は、慣れ親しんだ黒髪ではない。
鏡で見た、私は。
痩せ型で長身の、白髪の青年だった。
今まで、悪い夢でも見ていたのかと。本気でそう思った。
