不介入

 雪融けと春一番が過ぎ去っても、少女は社に現れなかった。
 母子の家はもぬけの殻だった。母親の死を切っ掛けに身寄りを喪った子どもは、既に楽団へ引き取られた後だと――俺にそんな話をする老いた男は、弔いの花束を携え、村の素朴さにそぐわない仕立ての喪服をまとっていた。
 男は母親の信奉者であり、支援者だった。母親は生前、信者の多くに子どもの後見を頼んでいたらしい。
「だいぶ揉めたよ。恥ずかしながら私も含め、誰も彼も譲らなくてね……でも、あの人の子だろう。みんな何となく、それが一番いい事だと分かっていたんだ」
 子どもを引き取った楽団は、母親がかつて所属していた場所だという。集った信奉者はみな観客として、子どもの未来を支援しようと結託したようだった。
 母親の死を遅れて知った信者が、まだ村を訪れるのだという。余暇のある老人は、子どもの行先を伝えるため、もう暫く村に留まる役回りなのだと話した。
憔悴しょうすいした顔しか見えなかったから、心配だけれど……彼はきっと良い歌うたいになる。私たちは皆、そのための支援を惜しまないよ。君も楽しみに待っているといい」
 老人の言葉には、少女の影がどこにもない。
 村の人間が言い淀むのが、視界の端に見えていた。

 村人に姿を変え、話を合わせて近付いた。支援者の到着より少し前、逃げるように少女の手を引いていった貴族の話を聞き出すことは難しくなかった。
 転移した先の屋敷。夜闇に沈む離れに目星をつける。
 屋根裏部屋を見通せる木の上から、俺はやっと少女を見つけた。

 真白の肌が、闇の中によく映える。

 濡鴉の長髪、長い睫毛、金の瞳――精緻な曲線で縁どられた身体に男が覆い被さっていた。
 男の荒い息遣いが耳に障る。唾液や汗が蒸し、狭い部屋に満ちていく。ひどく湿って生臭く、人肌と同じになまぬるい。夜気が粘つく錯覚がする。
 細い手首の鬱血痕は濃く、消失を待たず新たな痣が重ねられていると取れる。拘束力など持たないあざが、手枷に見えた。
 華奢な身体は、与えられる律動で無機質に揺すられるだけだ。薬を飲まされても、殴られても、どのようなはずかしめにも逆らわなかった。
 生き人形の虚ろな瞳を、男が去るまで眺めていた。

 屋根裏の窓は開いていた。男の気配が遠のいてから、窓枠に腰掛け覗きこむ。
 痩せた四肢を寝台に投げ出す少女は、精液で汚された舞台衣装を着せられていた。同様の煌びやかな衣装が、みすぼらしい部屋に似つかわしくない鮮やかさで散乱している。性欲処理の着せ替え人形という形容が的確だろうか。
 窓枠を叩く音に、少女は初めて反応を見せた。
 漫然と身体を起こし、首を回して俺を見た。切れて血の乾いた唇が動く。
「こんばんは、マキさん」
「ああ。こんばんは」
 入っても構わないかと許可を得る。少女はこくりと頷いた。
 白い素足が床板を踏む。挙動のぎこちなさは、身体の痛みを耐えるがゆえだろう。
――ぱたり、ぱたり。
 両足の付け根から落ちる精が、床にまるく染みを広げた。
 板張りの床、埃が薄く積もった木肌がぬめる。動物の体液の艶だ。
 一歩ずつ、両の太腿を伝い流れる白濁は、俺のいる窓際まで途切れながら糸を引く。
「お久しぶりです。そちらはお変わりなさそうで」
「そうだな。ところでお前に質問がある」
「珍しいこともあるものですね。伺いましょう」
 目についた衣装を破いて体液を拭いながら、少女はぺたりと床に正座した。
「音羽というのがお前の名前か」
 男が取り憑かれたように繰り返していた名前は「いいえ。それは母の名です」と切り捨てられた。
「なら、お前の名前は何だ」
「私の名前は相良といいます」
「そうか」
「理由を伺っても?」
「知らなかったから聞こうと思った」
「左様ですか」
 話が早いのは少女の美点だ。

 死の出処はこの縁故かと腑に落ちた。
 あの男が少女に振るう暴虐のすべては、俺の予測した「死」に一致していた。
 暴行の末の殺害や、内臓損傷に失血。怪我の治療もされておらず、感染症の危険も濃い。たびたび注射や経口で投与されている薬は規制のある危険薬物であるうえ、少女自身の栄養状態も芳しいとは言い難い。
 そして何より、少女が自死を選ぶ可能性は避けられない。

 不死者は人間社会に介入しない。怪物の力が人間を歪めないための戒律である。
 だから俺は少女に関し、この虐待に対して、どの様な手段をとることもできない。

 奇妙な死の予感の理由も判ったいま、少女にこだわる理由は無かった。だが懸念がひとつ――俺は少女の母親から、双子の出生に関わる言伝を預かっている。
 いつか子どもたちが知りたいと言った時、然るべき時期に話して欲しい。時が来なければ忘れても構わない。そう託された遺言は、俺を毎夜、少女のもとへと通わせた。

 日課の蹂躙じゅうりんが終わった後。嵐が過ぎた月夜はおおむね、双方無言で更けていく。会話が少なく、また沈黙を苦としない性質は、俺と少女の共通項だ。
「この世で最も母に近いのは、間違いなく兄です。その容姿も才能も、心も。見てくれと穴だけの不良品に引っ掛かってくれているのは幸運でした」
 時おり呟かれる独り言は、沈黙の水面に浮かんで消える、少女の呼吸のひと泡だった。
 深海に似た静けさの中、人形の唇からぽつりと吐き出される気泡を見るたび、その内部で複雑に張り巡らせてきたのだろう思索までは放棄していないことを確かめる。
「あの男が兄の居場所を掴んでいる保証はありません。でも、危険は少ないほうがいい。あの手合いはどうして、地位と金だけは持ち合わせがあるようですから」
 乾涸ひからびた声は無味乾燥としている。俯瞰、無関心、他人事。元よりまれだった感情の起伏はさらにならされ、きわめて平坦になっていた。

「此処では歌わないのか」
 森ではしていた。此処ではしないのか。その程度の問い掛けに少女は首をかたむけた。「そうですね」という相槌が肯定か否定か、直線の抑揚では判別がかたい。
 以前であれば、二割程度なら特定できたのだが。
「しばらく歌っていませんね、そういえば」
「そうだな」
「マキさんは、歌が目的で社にいらしていた訳ではありませんよね?」
「ああ」
「……はあ、」
 少女は寝台に腰掛けたまま、視線を宙にさまよわせた。
 何事か考えたのち、ひと呼吸――
「どうした」
「……――、いえ。最近、発声を怠っておりましたので」
 咳払いを何度か。立ち上がって背伸びをし、余念のない柔軟と発声練習で喉を慣らす。
 久しく見ていなかった一礼は、変わらず指先まで隙のない所作だ。
 旋律を唇にのせる。正確無比な音はそのまま、歌声は痩せていた。

 月明かりの近い屋根裏の立地を利用して、少女は本を読んでいた。
 部屋に積まれた本の山は、海向こうの国の言語の本から、料理の本、植物図鑑、猥雑わいざつな大衆小説まで統一感がない。
 他言語で執筆された書籍を睨みつける少女に、自宅の書庫から辞書を与えた。
「良いのですか」
「ああ」既に覚え終えた知識だ。
 読めない言語や文法、学術書など理解の難しい書物の解読に助力を求められた。俺は、俺の知識でまかなえる限り、少女の質問に答え続けた。

「……いらしたんですか。マキさん」
 とりわけ深手を負っていた夜があった。少女の命は男の気分次第で弄ばれていた。
 放っておけば膿む傷だ。濃い内出血と茶けた傷痕が痛々しい。他人の体液がべたつく手足を引きずる少女は、俺の訪問に初めて表情を曇らせた。
「不快な光景モノでしょう。貴方のお目を汚していること、申し訳なく感じています」
 はやく帰った方がいいと俺に勧めながら、寝台の敷布を割き、不格好にも手当の真似をしていた。利き腕の処置に苦戦していて、包帯代わりの布が意味を為していない。
「相良」
 俺は少女を手招いた。
 水差しの中身を拝借して傷を洗う。術式をり、清潔な布を取り出して傷を拭った。「……今のは?」「手品だ」「左様ですか」話が早いのは少女の美点だ。
「あの」
 上半身を拭き終え、下肢の清拭を続けようとしたあたりで制止された。
「……さすがに、下は自分で拭きますから」
「そうか」
 濡らした布を手渡す。清潔を取り戻しつつある身体が、俺に背を向け丸くなった。内出血がまだらな背中はひどく痩せ、背骨が浮いて見える。
 食物を持ち込むようになった。少女はゆっくりとだが、よく食べた。


「あの男は私の父親ですか」
 土砂降りの晩にそう問われた。
 もとより半信半疑だった説に、屋敷の人間の噂話が信憑性を与えたらしい。雨音にかき消されそうな少女の声は、まだ疑いを含んでいるが。
 紙袋に納めたパンを手渡す。小さな口で黙々と食べ進める少女を眺めながら、雨混じりの空気を吸いこんだ。
「お前の母親から預かった言葉がある」
 俺がここに通う理由。約束を果たす機会が巡ってきていた。
「聞きたいか」と問う。少女は頷いた。意思を確かめた以上、躊躇ためらう理由はない。
「長くなるが」
「……問題ありません。近くには誰もいません」
 確かに周囲に気配はない。男の足音は離れから遠ざかり、本邸に戻っている。
「結論から話す。あれがお前の実父かは、確かめる術がない」
 ざあざあと、雨音がうるさい。