3-7

 派手な物音を立て、銀の膿盆が床を転がる。
 入院着から伸びる生白い手足がばたつく。点滴の管が跳ねる。痩せ細った身の抵抗は弱く、看護師が難なく押さえた。
 採血の針が和泉に迫る。
「やだ、っ嫌だ……」
 青ざめたまま大粒の涙がベッドに零れて、目の焦点が覚束無い。注射器の切っ先が白い肌を掠め、痛みを引き金に気を失う。
 採血、投薬、点滴その他。事ある毎に繰り返す逃避行動は、身体外傷を治癒したところで改善するとは限らないと分かっていた。
「……まだ、やめた方がいいかもしんねぇな。来てもらったとこ悪ぃけどよ」
 和泉の眠る病室から少し離れた白い廊下で、図体の大きな入院患者が身を縮めている。
 風見と紫乃が目配せして、綺麗な紙袋のひとつを冬部に手渡す。自身も安静を指示されているはずの怪我人へ、二人からの見舞いの品だった。
「オレらぜんぜん、イズミちゃんのこと女のコにしたがるようなヘンタイ趣味ねっすよ。ちょっと顔見たいだけ……」
「……和泉もたぶん、お前らがそういう奴だとは思ってねぇよ。……でも、会いたくねぇって言ったんだ。待っててやってくんねぇか」
 つい先週、養父母の説得の折にも明かした事情だ。
 和泉の病室に入れる人間は、拒絶反応を示さなかった一部の看護師と医師、冬部だけと限られている。精神の状態は日によりまちまちで、入院患者であるはずの冬部が看護の人手として呼ばれることも多かった。
 和泉は、冬部にだけは一切の拒絶反応を示さない。
 監視と指導付きとはいえ素人にケアを任せるリスクと、患者への精神負荷を秤にかけた苦渋の選択は、奇しくも退院したがりの冬部をきちんと病棟に留める役割も果たしていた。
「……オレにとっちゃ、男のコのイズミちゃんが女のコの格好してっからイイわけじゃん? て感じなんすけど。それでもダメ?」
「よせ。いまの和泉に、んな冗談受け止められる余裕ねぇよ」
「いや、冗談じゃなく本気でマジ……やー、まあ了解っすわ」
 へらりと請負う風見に先んじ、紫乃が深々と頭を下げた。
 俯いたまま、風見を待たずに階段へと向かう。足音は階下へ遠ざかり、じき消えた。
「……紫乃のやつ、大丈夫か?」
 とうとう一言も喋らなかった。嵐の前の静けさなのか、彼女本人の気が落ち込んでいるだけなのか、冬部には判断がつかない。
 風見が手のひらで片目を隠しては、閉じたり開けたり、指をひらひら遊ばせる。彼女に「視えた」色彩に首を傾げる。
「ぱっと見ヤベぇけど、逆にヘンなくらい『ヤバくねぇ』っすよね。あそこまでキレてりゃ、ちょっとくらい危険値出んのがフツーじゃね?」
「……キレてんのか」
「そりゃキレるっしょ。好きなコあそこまでぶっ壊されといて黙って泣いてるだけとか、さすがに無えよ」
 風見が吐き捨てた。声が地を這い剣呑に冷える。
「……おい風見、」「だーいじょぶだって。犯人もう捕まってんだろ? オレからこれ以上何もしようがねぇってことくらい、分かってっからさ」
 諌める気配を見越し、風見はころっと声色を変える。まあまあ、などと逆に冬部を宥めて茶化す。
 その目が笑っていない点について、冬部は指摘しなかった。
「紫乃の様子、少し気ぃ回して見ててやってくんねぇか。あっちには学校があるんだろうし、無理頼んでんのは分かってんだけどよ」
「りょ。それは全然いっすけど、……どんだけキレたとこで大丈夫ってだけじゃね? ぽこぽこ鬼化する奴らばっかじゃねーし。たいちょだってそゆの全然じゃん」
「いや、紫乃は…………」
 一度は鬼化した――和泉の「歌」で人の側へ戻れただけ。
 喉まで出かけた言葉を飲み込む。ことによっては彼女の命に関わりかねない事実だ。軽々しく触れ回るべきではない。
 看護師が慌てて病室を飛び出してくる。廊下を見回し――冬部を見つけて駆け寄った。
「っ早く、安岐さんの病室に来てください……!」
 和泉の病室から、高い悲鳴が響いた。

「……来、ないで、ください」
 外敵に毛を逆立てる、死を覚悟した小動物のようだった。
 窓を背に、大振りの鋏を両手で握り締めている。切っ先は今のところ看護師らを威嚇しているが、震えるそれがいつ和泉自身の首に突き付けられるかは分からない。
 小刻みに揺れる目の焦点が、病室に駆け込んだ冬部に合う――何度か瞬きをする。
 身体に入っていた力みが緩むのを、冬部は見逃さなかった。
「手ぇ切るぞ、ほら」
 鋏を下ろさせる。その切っ先を鷲づかんで封じながら、鋏を離そうとしない白い手を、一本ずつ、開かせる。
「今のお前に、刃物持たせたくねぇだけだ。何も、ねぇから」
「……やだ、」
「お前のこと傷付ける奴は、ここにはいねぇよ。居たところで俺が伸してやる。……大丈夫だから、な。いっぺん、ゆっくり、息できるか?」
 背中をさする。肩で浅い呼吸をしていた和泉に、呼吸のリズムを教える。その瞳が現実を映すまで待つ。膠着状態が長く、息が詰まりそうに続いた。
 和泉が俯く――やっと、鋏を手放した。
「……冬部さん、……俺の髪の毛、切ってくれませんか」
「……髪?」
 和泉の頭、背に届きそうな黒髪。見慣れた髪型よりもずいぶん伸びたそれに、和泉が鋏を持っていた理由にやっと気付けた。
「そういうのは、手先器用なやつに……看護師とか、いるだろ。そっちにやってもらったほうが、」
「なんでもいいんです。……女の子に見えなければ、なんでも」
「……つったって、よりにもよって俺じゃあさすがに」
 看護師に手渡そうとさまよった鋏に、和泉が飛びついた。冬部は慌てて鋏を遠ざけ、勢いあまった華奢な身体を抱きとめる。
 和泉がのろのろと冬部を見上げた。目の底に怯えを隠して、顔色を窺うように。
「……わがまま言って、ごめんなさい。でも、……冬部さんが、いいです」
 和泉の身体の状態を見れば、何をされたかは予想できた。
 予想は出来ても、想像はできなかった。人を「そう」ねじ曲げる方法など知らなかった。やる人間がいるとも思わなかった。
 和泉がそんな悪意に曝されたのだと理解した瞬間、嫌悪と無力感で胃の腑をぐちゃぐちゃに捻じ切られそうだった。
「……どうして、俺なんだ?」
 さくさくと鋏が入る。艶やかに整えられた黒髪が、ひどく不格好に刈られていく。馴染みの髪型に近づけようと奮闘するほど、取り返しのつかない所へ向かっていた。
 不穏な雲行きを知ってか知らずか、和泉は小さく微笑む。 
「冬部さんは、助けに来てくれたから」
「……あ?」
 鋏の音が止まる。

 違う――俺は、
 お前を助けに行けなかった。あれだけ大きな口を叩いておきながら。紫乃に知らされるまで、事態を察することすら出来なかった。
 連絡が途切れた時点で、疑うことは出来たんじゃないか。実家に連絡を取ればよかった。最悪の事態を予期する思慮に、著しく欠けていた。
「……冬部さん?」
 もっと早く介入出来たのかもしれなかった。自分が、悪意に聡かったなら。

「……ああ、そうだな」
――もし、俺だけを信頼している理由が、その思い違いのためなら。
――それが嘘だと知ったなら。和泉は一体何を頼れる?

 自分が黙ってさえいれば。罪悪感と無力感で死にそうになっていたとしても、それで和泉の回復が早くなるなら。きっとその方がいい。
 真実を吐露したがる理由など、一つだけ。
 自分が楽になりたいだけだ。
 正直でありたい、嘘を抱えていたくないという自分の楽は、不要なものだ。
(……和泉を助けた「俺」は、誰だ?)


 日暮れの足音が随分と早い。
 こと、分厚い灰色の雲に恵まれた今朝からずっと、太陽の光を見ていない。悪天候の薄暗さが気の早い日没を錯覚させて、街のどこも、終わりの見えない薄明のただ中で忘れ去られてしまったようにしんとしていた。
「紫乃……思い詰めるのは身体に毒です。最近、あまり眠れていないでしょう」
「どうでもいいよ。いいからさ。……そんなこと、どうだっていい」
 鏡の茶々が邪魔でしかない。この胸を占める怒りに比べれば、簡単に霞んでしまう。鏡に映った彼の姿を思い出すたび、まとわりつく手触りの激情に飲まれそうになる。
 誰でもいい。何でもいい。あんな真似をした犯人を殺してくれないか。
 都市伝説の眉唾も、神様だって信じてみせる。――どうか対価を払わせろ。
 彼を苦しめた奴に同じだけの苦痛を与えて、そのまま殺してしまえるなら。きっと迷わず選ぶだろう。
 もしかすると、この手を汚してでも加害者側に立つかもわからない。
「……紫乃、!?」
 肩を掴まれた。振り向かされる――瞳に映り込む柔らかな彩り。

 花が舞っていた。

 一輪の花、花弁の舞い散るそのひとひら。誰かに手向けられるはずだった数輪の花束。柔い花が空気の内から湧き出して、無骨なアスファルトの上にぽとぽと落ちる。
 再び空気となってほどけていくものと、残るものが半々。みずみずしい蜜が香る。生花の艶やかさの中に、違和感を残す混じりものがある。
 甘いミルクココアの匂いがする。
「……え、あ、うそ……!?」
「何を、」
「っやだ、何、これ。なんで、わたし、まだなにも『描いてない』!」
 周囲に通行人はない。異変に気付いているものはいない――鏡が紫乃の手を引いた。

 二人の姿が鏡面に飲み込まれる。
 数枚の花弁の上に、古い鏡とその鎖が落ちた。

 反転した景色の中。奇妙に人の気が失せた鏡面の街で、鏡が紫乃の背中を支える。
「紫乃、落ち着いて。……説明を。貴方は、この花の出処を知っているのですか?」
「……出処、て、いうか……あの。……」
「支離滅裂でも、整頓されていなくともいい。ちゃんと、聞いていますから」
 花はとめどなく湧き続けている。紫乃のすぐ近くから、彼女から溢れる何かが結晶に変じているかのように。
「此処なら誰の目にも触れない。触れさせない。安心して、ゆっくりでいい――、」
 鏡が奥歯を噛み締めた。

「彼女」を振り向く。
 深紅の花を一輪、掬い上げる指。

 滑らかな曲線が四肢を象る。傷ひとつなく磨きあげられた彫像の肌に体温が宿り、赤い血が通っている。
「綺麗な花ね」
 ありえない――そもそも此処に入れるはずがない。
 鏡が許すはずもない闖入者が、そこで笑っていた。
「……貴方は、」
「でも、ふふ。本質は、何かしら?」
 くるくると指で遊ばせた花を、隣に立つ男の口にねじ込む。
「ば、――っぐ!?」
「あら、やっぱり毒だった。良かったわ。……あたしの名前はさくらよ。そう呼べって何回言ったら覚えるのかしら」
 男は胸を押さえ、苦痛に耐えながらひどく噎せこむ。細く呼吸の音がして、血の絡んだ咳を吐く。
 顔も上げられない彼など見えていない素振りで、佐倉が微笑んだ。
「こんにちは、榛名紫乃さん。挨拶と同時に歓迎するわ。
――貴方の身に起きてる変化と、私たちの未来について。すこし、お話しましょうか」