3-11-1

 暴力的なまでの雨音が、夜を軋ませていた。

 街は雨で白くけぶる。水面に揺れるような視界は、一歩先すら曖昧だ。革靴はじっとりと浸水して、歩く毎、冷たい不快感が染み出す。
 薄い折り畳み傘を傾けた。すぐ背後で雨水が流れ落ちる。目に鮮やかなネオンが溢れる。玩具じみたショッキングピンク、深海のブルー、お高く留まる白――姦しい色彩に辟易へきえきしていた。

 一人。とうに切れた関係を、一方的に再燃させられていた。
 二人。穏便に切れそうだった予定が、一人目の乱入で狂った。泣き崩れられ詰られ、宥めるのにひどく消耗した。
 三人。急用によりキャンセル――(これも恋人関係ではないが)別れ話は延期だ。
 そして帰路。局地的な豪雨に降られている。

 今日はことに厄日だった。為すことすべてが失策で、普段ならばよく効く言葉ごまかしは逆上を誘い、些細なきずが命取りとなり掛けた。己の背に包丁のひと振りも刺さっていない辺りが、神とやらのなけなしの温情らしい。
 ツキがない。随分なことだ。このまま転げ落ちる先は、一日分の厄を上塗する幸運か――終いに相応な破壊力の不運か。

 視界の隅に襤褸布ぼろぬのが動いた。
 それが、三角座りで膝を抱える生者だと認識した瞬間、悟る。
今晩こんばんは。いい夜ですね、お兄さん」
 人好きのする笑みは、厄日を締める「非日常」だった。


 腹に響く雷鳴が轟く。ざあざあいう雨音のノイズは、帰宅してもなお衰えを知らない。
 泥鼠の男に玄関待機を命じ、雨水にふやけた襤褸を剥ぎとり洗濯機に入れる。タオルと着替えを押し付け、風呂に放り込んでから、点々と残った泥の足跡を掃除した。
「ひと雨だけしのいで出て行け」
 汚れを落とした野良犬は、驚くほどに白かった。
 牛乳色の長髪がぺたりと濡れて女の様だが、痩せてあばらの浮いた長身を見間違えるには貧相が過ぎる。短い前髪の下、幼い顔立ちがつるりと晒されていた。
 中身の無さそうな緑の瞳が、へらと笑む。
「貴方が御客となられずとも、困りませんよ。野宿すればよいのですから――と、申し上げましたような」
「低体温で死ぬか感染症で死ぬかだろ。いいから、腹の傷を見せろ」
 その『御客』とやらに恨まれでもしたのか。女――この男娼の営業相手が男女どちらかは知らないが――に刺されたのかという憶測は、自身の耳にも多少は痛い。
 苦虫を噛みつつ包帯を巻く手に、影が落ちた。

――甘い。
 香りにひどく、鼻の奥が疼く――男に貸したはずのバスタオルは、己の茶髪を包んでいる。

 思わず見上げた。距離が近い。疑念の視線は不思議そうに見返される。
 雨に濡れて冷えた髪を、湯気をまとうタオルが温めていく。丁寧に水分を吸ってかわかしながら、のらくらと寝転ぶような声が笑った。
「貴方も雨に濡れていらっしゃるのでしょう。浮浪者の世話より、御自身の世話をなさった方がいい。お風邪を召される前に」
 知らない匂いだ。男娼かれの移り香であるのだろう。花というには、動物性の香りに近い。自然な体臭と片付けるには甘過ぎる。
 ちょうど、この白い肌を苗床とし、彼の血の通う花が芽吹くなら、こういった香りになるのかもしれない。
「……包帯、巻けないだろ。気遣いには礼を言うが、退けろ」
「ああ、これは失礼」
 芳香が薄まり冷や汗は乾いた。手当を終え、渡したスエットに着替える彼を横目に、ずっしりと濡れそぼった上着を脱ぐ。
 薄い身体に、余る袖を持て余しながら、彼が思案に暮れている。
「信条として、受けた御恩はお返しする主義なのですけれど。お兄さん、女性以外に食指は動かないのでしょう?」
「ああ。あいにく、男を買う趣味は無い」
「では、労働力としては如何でしょう。使って良い食材さえご教示頂ければ、貴方の湯浴みが済むまでに晩御飯をお作り致しますよ」
「俺は自炊する質だ。食材も一週間はみて買い込んでいるし、そう細かく指定するのも気が引けるからいい」
「お掃除などは、……整然とされていらっしゃいますね」
「仮に散らかっていたとしても、初対面の人間に任せるようなことはしないな」
 察するに、家事特化なのか。提案を却下しきりなのも心苦しい。が、恩を返したいというのなら、こちらの要望はひとつきりだ。
「お前の生死に興味は無いが、俺に殺人の容疑がかからない程度生きてからにしてくれ」
 色町での立ち話は、風俗の客引きに観察されていた。
 悪天候ゆえ客入りのない勤務時間、男娼の客引き現場というものは丁度いい暇潰しであったらしい。その男娼が死んだとなれば、警察から真っ先に疑われるのは己のはずだ。
 自身に迷惑が掛からない範囲なら何処で死のうが構わない、と。公言するような男に(例え恩義があるとはいえ)、そうまで義理立てする意味も無いだろう。
 そんな話をしたところ、白い男がころころ笑った。
 他意は感じない。心の底から「楽しい」だけの、弾んだ声。
「人のい方でいらっしゃいますね。お兄さん」
「……その感想が出てくる意味が分からないな」
 話を聞いていないのか、阿呆あほうなのか、どっちだ。両方か。

 翌朝。洗い上がりの太陽に照らされた居間から、白い男は消えていた――
牧之まきの。……雪平ゆきひら牧之まきのさん? 聞いていないね?」
 血色の悪さなら、白磁といい勝負をしていた。……と、思う。
 珈琲の水面に、物憂いた瞳が揺れる。呼びかけに気付いた菫色すみれいろが、眼前の彼女をみとめて瞬いた。「悪い。何か言ってたか」「や、いいよ。今から話したいんだけど、かまわない?」「ああ、」
 大きな窓から陽が差し込む、喫茶店のひと席。やや過剰な冷房が行き届き、テーブル席の並ぶ店内には、向かい合う彼らのほかも多くの席が埋まっていた。忙しそうな足音が店内を廻る。
 焼き目がついてぽこぽこと沸きたつチーズ。掬ったひと匙に、つやつやとしたデミグラスソースがとろりと絡む。
「もうセックスはしない、個人的に会うのも無し。身体の関係があったことも秘密にする。そういう話だったよね? 私はいいよ」
 ランチメニューのミートドリアをふうふうと吹いて、彼女が黒髪を耳に掛ける。小さめの一口はまだ早――「熱っつ! ああ、でもお腹減った……」手で掴めそうな湯気の塊が幾つも、雪平の眼の前を彷徨うろついては、明るい店内に薄れていく。
「良くも悪くも振り回される恋愛より、毎日ここに帰って来たいと思えるような、穏やかな愛情が欲しかったんだって気付いただけ。あなたは本当に、身体と顔だけだったから。心まで満たして寄り添ってはくれない」
「納得してくれるなら助かる」身体だけという条件は、初めに合意した契約ではあるのだが。
「牧之さんのその、私の交友関係の一切に興味無い感じね。無駄にいらないとこまで踏み込んでこようとしないスタンス、私も気に入ってたよ。何だかんだ楽しかったし。手切れ金としてランチ代ふっかけてもいい?」
「俺が呼んだんだ。拒否されない限り会計は俺がもつし、好きに食べてくれ」
「ごちそうさま。その感じだとお店は順調か。良かっ……すみません。季節のパフェお願いします。はい。食べ終わってから。
 今日の別れ話ってもしかして、経営に集中したいから? 喫茶店だよね」
「まあ、……そうだな。まだ道楽まがいではあるんだが」
「別に音信不通でサヨナラされたって、包丁持ってカチコミになんて行かないのに。あ、……ただのお客としては行きたいかもな。それも駄目ってことになる?」
「そこまで強制するつもりは無いし、俺も構わない。出来れば、意見を聞かせてくれると助かる」彼女なら、店に来ても問題ないだろう。
 以前、喫茶店を見て回る趣味があるとも話していたから、有識者としての意見も得たい。
「いいよ。メニューにパフェを入れておいてね。店長さん」
「……努力はしよう」
 アップルマンゴーが賑やかに盛り付けられた器には、時折パイナップルも顔を覗かせる。目に眩しい色合いが爽やかで、来たる季節を先取りする鮮やかさだ。
 角切りの果肉がつやつやと照り、柔らかな音を残して彼女の口に消えていく。
「結構どこも甘いものって置いてるからさ。これだってものが作れないんなら、ドリンクだけに絞っちゃうのも……や、素人意見か。牧之さんの淹れてくれた珈琲、半端なお店より美味しかったから楽しみ」
「……今にもまして、趣味もいいところだったぞ。世辞は貰っておくが」
「お世辞じゃなく、案外さ。素人の趣味って、自分が好きで始めることでしょ? よくわかんないけど楽しいからやっちゃうって感じ、一種の才能だと思うよ。とことん極めちゃう人ってそんな気がする」
 飾りのない指が端末を取り出し、一枚の写真を見せてきた。
「『楽しくてつい』、らしいから」
 白のケーキと器には、青く透き通る鉱石が、花と咲いている。

 彼女を見送って会計を済ませる間に、次の相手と都合がついた。端末に短く返信を打ち込み、店員に会釈して店を出る。
 晴れた空を手で遮る。影で菫の瞳をすがめ、鈍痛をやり過ごして立ち止まる。まばたきを数度、重い瞼を開けた先に――また、眩しいものが目に入った。
 先ほど別れたばかりの背中、その隣。
 彼女を迎えた、白髪そいつは。